法の裁きと集落の人間関係 プロムプラシット寺院事件:癒えない傷跡

 タイ深南部紛争においては、特に2004年に治安が悪化して以降、仏教僧と公立学校の教師がタイ政府による支配の象徴として暴力の対象となり、これが現地に住む仏教コミュニティの不安を煽り、ムスリムコミュニティへの不信感と憎悪の感情を深めてきた。
 この記事は、こうした暴力事件の中でも特に仏教徒コミュニティに大きな衝撃を与えたと言われる2005年10月のプロムプラシット寺院事件について、現地の若手ジャーナリストが関係者にヒアリングし、まとめたものである。タイ深南部紛争は、宗教が紛争の根本原因ではないものの、この事件をきっかけに、この地域に住むムスリムコミュニティと仏教徒コミュニティの分断が進んだと言われている。
 
 

                    法の裁きと集落の人間関係
                 プロムプラシット寺院事件:癒えない傷跡

                                       執筆者:ソムサ

 「(刑務所から)出所したときには、周りからは、あいつは酷いことをした輩なんだから、出てきても悪い奴に違いないと見られていました。彼らにとっては私は残虐な人間なのです。」
 こう語るマミン(仮名)は、2005年10月16日、パッタニー県パナーレ郡バーンノーク町コー村に位置する、プロムプラシット寺院で発生した、僧侶1名と年少の寺男2名を殺害したのち死体から首を切り離し、僧房に放火して寺院内の財産が焼き払われた事件で容疑を受け収監されたうちの1人である。
 「私が逮捕されてからというもの、村落の友人たちはバラバラになってしまいました。(イスラム教徒である)マレー人と仏教徒のタイ人が対立するようになってしまったのです。」とマミンは語る。
 
 彼の語ることもまた事実である。プロムプラシット寺院近辺に住む3-4人の仏教徒は、マミンが釈放されてからというもの、皆がストレスに悩まされていることを認める。裁判ののち10年以上にわたりマミンが投獄されていたことは、(必ずしも)集落内の状況を改善するために何か寄与するものがあったというわけではない。(むしろ)前述の事件が発生して以来集落内の仏教徒とイスラム教徒、またはイスラム教徒同士の関係は冷え込んでしまったのだ。
 
 (集落内の)仏教徒の1人によると、「怖いことは怖いんですが、どうしたらいいのかわからないのです。彼の刑がだんだん減刑されて、最終的には恩赦を受けて、今では刑務所から出てきてしまいました。彼が(車で)家の前を通りかかると、窓ガラスを下げて私たちの家の方を見るのです」。

 この「家の方を見る」ということが今現在マミンと村落内の仏教徒の(間に残された)唯一のやり取りなのであるが、このわずかな間に見られるということが彼らの間に猜疑心を生じさせることになってしまっている。

忌まわしい記憶

 この寺院で発生した殺人放火事件は、周辺に住む仏教徒にとって大きな衝撃であった。寺院のM住職は事件発生を目撃している。事件発生以前から事件発生に至るまでを振り返り、何が起きたのか、なぜこのような残虐な事件がこの寺院で発生してしまったのかについて尋ねてみた。
 「寺院に人が入り込んできて、僧房を焼き払い、大きな銃声が聞こえました。その時には(ただ)驚いて銃声なのか爆竹の音なのか区別がつきませんでした。まず頭に浮かんだのは、こんなことが現実に起きうるのだろうかということでした。」
 
 イスラ通信(Isra News Agency)によると、犯人グループは鉈で僧侶を切りつけ殺害したのち、遺体に点火して燃やした。年少の寺男は銃撃され現場にて死亡。また、僧房が犯人グループにより放火され、僧房内の物品が大きな被害を受けた。事件は2005年10月15日夜間に発生した。

 M住職は地元出身で20年前に出家した。事件の最中僧房で身を隠していた住職は、今回の事件の重要な目撃者であり、彼の証言が裁判に影響を与えることになる。
 事件を振り返って、M住職は(マレー系のイスラム教徒と体系の仏教徒が)「ともに」(同じ村落で)暮らすことが今回の事件の犯人グループにより付け込まれ、また寺院の四方に道が開かれた(逃亡に便利な)立地がこの事件の標的として選ばれた原因であろうと考えている。
 「この寺院には何の自衛の手段もありませんでした。なぜなら(この村落には宗教の異なる地元住民が)ともに暮らしていたからです。何か事件を起こそうとしても簡単に逃げられるのです。例えば10人(寺院に)で入ってくれば、10人とも逃げられます。これが、犯行に及んだ要因です。例えば物を盗みに入っても、簡単に逃げられます。私たちも警戒していたわけではありません。(同じパナーレ郡にある)クラーン村の寺院も同じように標的になりました。彼らは長いこと目をつけていたのです。犯人たちはいきなり犯行に及んだのではありません。寺院の一つや二つを攻撃してやろうと思っていたのでしょう。そしてこの寺院にやってきました。彼らには(周到な)準備があったのです。」
 
 事件が起きてから暫くの間は、M住職も含め(地元住民の)皆が感情的になっていた。しかしながら、最終的には(イスラム教徒の住民を)十把一絡げにして非難をするべきでないということは受け入れられた。「事件が起きた翌日は我々も、『なんだってお前らはそんな人でなしなことをするんだ』などと口汚い言葉を使っていました。しかし彼ら(マレー系住民)は、『そうやって全員ひっくるめて非難するんではなく、一人一人を見てほしい』と言いました。それもそうです。その時には皆が感情に任せていました。(一般のイスラム教徒が)生計を立てる(ために村にいるのは、仏教徒にとっては)問題ではありませんから。」
 
 事件発生後の2005年10月22日にマミンは警察に身柄を拘束された。その時彼はポノ(またはマレー語でポンドックと呼ばれるイスラム教の伝統的な寄宿舎学校)で学んでいた。逮捕状や令状などは何もなかった。警察によると、(拘束の理由については)彼の家は(村落の中のマレー系の中では)一番寺院から近いからということだった。
 それ以来彼の生活は狭い四角形の「監獄」と呼ばれる場所に移ることになる。それはただ刑務所だけを指すのではなく、(拘束された)初日から事件の容疑者を拘置した場所、ヤラー県にあるタイ国家警察前線訓練所も含む。緊急事態における行政に関する緊急勅令によると、治安事件の容疑者は(裁判を経ないで)取り調べのために30日を超えない期間であれば身柄を拘束できるのである。
 
 マミンによると、彼とその他の容疑者は「特別」な、つまり拷問を用いた方法で取り調べを受けた。それは地元住民の皆がよくわかっていることである。「取り調べの間中彼ら(担当官)はあらゆることを行いました。」これらの事柄は彼が事件に携わったという自白を引き出すために行われたのである。マミンが容疑を認めるに至った要因は家族に対する懸念であった。
 「我慢できなかったのは、彼ら(治安担当官)が(私の拘束中に)うちまで来て、のぞき込んだり、周囲をうろうろしたり、夜中にうちに入り込んできたりしたのです。その時には考えが至らず、ただ家族に害が及ばないことだけを考えていましたので、自分に何が起きても構わないが、家族にだけはよからぬことが起きてほしくないと思い、あまり考えずに容疑を認めて書類に署名しました。署名するときも書類には目を通しませんでした。署名した書類は、白紙の書類が一通、もう一通は何かいろいろ書きこまれていました。警察が言うには、署名さえすれば家に帰してやるということでしたので、署名しました。しかしながら、裁判所は(検察の間違い)立件を命じ、新しい住処を得ることになったのです。」
 
 裁判所(検察の間違い)による立件以来、マミンとその他の容疑者は逮捕され、2005年11月22日ににソンクラー県中央刑務所に拘置のために移送された。また、この事件は重大事件であるために裁判所も保釈を認めなかった。マミンによると、裁判所で事件の審理が始まるまで一年以上(拘留のため)刑務所に居らねばならず、また下級裁判所で審理が結審し判決が下るまでに4年以上の年月を要することになる。
 
 2009年2月下級裁判所は、この事件にかかわった11人の被告のうち、5人に対し終身刑を言い渡した。マミンの弁護士は控訴しなかったためこれが審理の最終的な判決となった。この事件を受け持った弁護士の1人によると、実際のところは弁護士チームはマミンを含め5人すべての被告の案件を控訴したかったし、マミンの家族も控訴を望んでいたのだが、(おそらくマミンの家族が)経済的な問題に直面していたため、マミンの弁護を担当していた弁護士が控訴を見送った経緯がある。そのため下級裁判所の判決が最終的な判決となったのである。とは言え、一方でマミンとその家族は控訴をしなかったことに不満を抱いていたが、そのことが結果的に良かったこともある。それは、裁判で争うためにこれ以上時間を浪費する必要がなくなったので、その時間の分だけ刑務所に(拘留のため)留め置かれる時間を使わずに済み、その日から刑期に入れるということである。刑期の間にもいくつかの減刑措置があり、最終的には(マミンは刑務所から)出てこられたのだが、マミン以外の4人は控訴のためにかかった時間により刑期の執行が遅れ、(審理終了時点から)刑期が数えられることになる。(担当)弁護士によると、この事件では事件の重要目撃者である住職の証言が重きをなしており、審理の在り方に大きな影響を与えた。
 
 同じ弁護士によると「住職は(法廷で)何人かを指さし、彼らは刑務所に送られるべきだといいました。そして5人が投獄されたのです。ほかのものは釈放されました。したがって南部国境県にもまだ法の正義があるといえます。」ということであった。「それがどれだけ真実であるかについてはわかりません。住職に聞いてください。」この件は法廷で争う側にとっても、どれだけ争う方法があるのかを吟味んせねばならないという教訓になった。例えば、法廷での争いは、(被告と弁護側が)自らの限度を知らなければならない。マミン自身はこの件について多くを語らず、ただ、判決は神の定めとして受け入れるということだった。
 
 しかし、弁護士の言う、「南部国境県でもまだ法の正義がある」というのは、集落の皆が感じていることではなかった。裁判制度は禁固刑を科すことはできるが、それは「融和」という感情を引き起こすものではなかった。

監獄での罰と処罰感情

 2017年1月7日マミンは釈放された。彼の気持ちの上では事実とは思えなかった。「釈放された日は、これは本当なのかと考えながら、まるで歩いていても空気中を漂いながら地面を踏んでいないようでした。家についてもそれが自分の家だとはわかりませんでした。覚えていなかったのです。」
 マミンが刑を終えて自由の身になることは、今度は集落内における、とりわけ仏教徒にとっての緊張感の始まりだったのである。今回の事件は僧侶を殺害し僧房を焼き払ったのみならず、地元出身の年少の寺男2人も亡くなっている。10年以上経た今でも、憤りや猜疑心はいまだに薄れていないのである。
 
 寺院の近くに住む仏教徒の住民は、「(南部国境)3県で起きた暴力事件のうち一番酷いのは、プロムプラシット寺院で起きたことです。我々住民は心の拠り所を失いました。(僧侶を)銃撃したうえ(僧房まで)燃やすんですから、我々の心はふみにじられました。」と語った。「今でもまだ恐怖心は消えていません。いまだに暴力事件は起き続けているのですから、(身の安全に)確信が持てないのです。僧侶や寺男が何をしたというのです?彼の利権を脅かすようなことをしたのでしょうか。捕まった者、もこの近所の人間です。以前は何も問題がありませんでした。彼らの両親もいい人たちです。いったい彼がどこから何を学んできたのか、全くわかりません。」
 「私たちは寺院に入っていく車をすべて見張っています。誰の車か知る必要があるからです。降りてきた人間が見知っている人間ならば問題はありません。しかし夜間はより心配になります。寺の中に車が入ってきて、降りる者もおらず何も聞かずに出ていくととても疑わしいのです。車の後部座席に男が2人座っていたりしたら余計に疑わしくなります。我々には心の拠り所がありませんし、(寺院に)人が入ってくると不安になるのです。」
 
 (寺院と)同じ町内にある村の女性村長Aは、村の住民がいまだに猜疑心と恐怖心に苛まされているのは、発生した事件が残虐非道であり、到底彼らにとって受け入れがたいものだからであると見ている。「これは身の毛もよだつ事件です。なぜ我々がこんな目に遭わなければならないのか、なぜこんな事件が起こったのかということを考えざるを得ません。そうして捕まった犯人はこの近隣の村の出身者です。なんで近所の人間がこんなことをできるのか、何のためにやっているのか、と考えざるを得ません。地元で(こんな事件が)起きてほしくありません。」
 女性村長Aは村人の感情をこう説明する。「また、なぜ彼に下された罪が軽いのか、なぜ死刑にしてしまわないのか、なぜ彼を釈放してしまうのか、といった疑問が残ります。(地元住民の間には)また彼から何かされるのではないかという疑念がぬぐえません。」

 マミンによると、彼の事件が裁判になって以来、仏教徒とイスラム教徒の住民の間の猜疑心は増すばかりであるという。「家に戻ってきたときに、ある人が言うには、仏教徒の住民のうち何人かは私がまた彼らに何らかの害を及ぼすのではないかという懸念と猜疑心があるということでした。彼らが猜疑の目で私を見ると、私も彼らに猜疑心を抱かざるを得ません。どうして私をそういう目で見ねばならないのか。私には彼らの猜疑心がわかりません。いったいどういう解釈をしているのか。ただ車で通りかかっても彼らの視線が降りかかります。」

 この猜疑心は伝染病のようにひろがり、仏教徒とイスラム教徒がお互いに、またイスラム教同士でもお互いを疑うようになってしまった。マミンにとってはこうして一緒に暮らすことが心苦しくなってしまい、最終的に引っ越す決断をする。
 「わたしがいないうちは何ともなかったのです。しかし私が戻ってくると問題になる。つまり私自身が問題の種なのです。これを解決しようと思ったら、私が身を引くことです。もちろんこれはいい解決方法とは言えません。しかし私自身この問題を根本的に解決して受け入れてもらうだけの準備がありません。自分の生まれ育った場所を離れるのはつらいことです。将来またここに戻ってくることができるかどうかわかりません。私は(刑務所にいる間中)ずっとこの家のことを恋しく思っていました。10年以上も帰ってこれなかったのですから。しかしながら帰ってきたら家に居場所はありませんでした。気が重くなります。何も自分らしいことができないのですから。」
 
 村落の一部の者からの猜疑心に満ちた視線のほかに、常にマミンを見つめているもう1つの視線があった。それは治安担当官たちの、彼をいまだに容疑者として見ている視線である。この視線を逃れることができないのはマミンにもわかっている。そしてこの視線のために、自由の身になって刑務所の外で暮らすようになっても、彼は常に監獄にいるような気分に襲われるのである。
 「(刑務所から)出所した後家で暮らさない理由の1つは常に脅かされているからです。家族も身の安全に不安を感じています。これ以前、私が出てきた後、警察が、なぜ出所したのに、今何しているのかを報告しないのかと言ってきました。おそらく私はずっと容疑者のままなのでしょう。私は長く刑務所にいましたので、出たり入ったりする人を見てきました。こうした(前科の)経歴があると、警察も(何か事件があれば)我々の身柄を探してきますし、生活はもう元の通りではありません。」
 「容疑者というのは刑務所から出所してもまだその中にいるようなものなのです。周辺地域で何か(治安)事件が起きれば、前科のある我々がまず容疑者になりますから。裁判の審理を終えた証明書を常に持ち歩いています。また、(政府には)常に協力していますし、逃げたりもしていません。何か行事やプロジェクトがあれば参加しています。(軍隊による治安事件に関りがあったものを帰還させるための)ふるさと帰還プロジェクトも参加しましたし、(治安維持法で定められている、意図せずに治安事件に巻き込まれたものと裁判所が認めたものについては、6ヵ月にわたる軍隊主導の研修への参加が免罪措置となり、その研修の最後に行われる)イスラム教布教活動の旅にも参加しました。彼ら(軍隊)が言うには、こうした行事や研修に参加すれば犯罪者の名簿から名前を削除してやるということでした。しかしいまだに(こうした参加者の)名前は名簿から除かれておりません。どうやっても名前はそこに留まったままでしょう。これまでほかの人たちもそうですから。10年以上も刑務所の中にいた人間は、何か事件が起これば常に同じような目に遭います。今日も(おそらく軍隊)に呼ばれた人間がいます。」
 
 社会復帰に関しても、マミンはどうしていいのか、また如何にして新たな生活を始めればいいのかがわからなかった。しかし出所から1年ほど経過して、どうにか社会に対応しながら振舞えるようになってきた。マミンは再び妻が所有するゴム農園でゴムの採取の仕事を始めた。それでも彼には、集落の状況が元に戻るまでには長い時間と多くの心労を費やすであろうと思われた。
 「もしも彼ら(仏教徒)がこれまで起きたことだけに囚われずに、心を開いてくれれば元に戻ることも可能です。私が田んぼに出ているときにも通りかかる仏教徒たちは普通に声をかけて会釈をしてくれます。私はいつも普通にしているのですから。私のことを、だれがどう見ようとそれは彼ら次第です。時間がたてば、自分がどういう人間であるのか証明してくれるでしょう。私にとって、過去に起こった事柄はそれぞれの人間の心の中にあります。それがどう彼らに働き掛けるかは彼ら次第ですし、あれこれ何かする必要もありません。もし彼らが心の広い人間ならそうした感情は収まるでしょう。」
 
 村落の住人の中には、この村の元村長、B氏のように、物事をポジティブに考える人間もいる。彼はこの事件は村に衝撃を与え、集落が分断されてしまったが、それも長くは続かないと見ている。彼は、そのあと集落は再び元のようにともに暮らしていくことができると考えている。
 「昔は(個々の人間は)兄弟のように、結婚式や寺の行事などでも仲違いすることなく助け合いながら、ずっと一緒に暮らしてきました。僧侶の殺人と寺院の放火事件の後は(集落の)断裂が起こってしまいました。(仏教徒とイスラム教徒が)互いに信用しなくなっているのです。私はともに暮らしていくために何度も会議を招集しました。今はすべてが元に戻っています。断裂もありませんし、共に暮らしていくことができます。中には問題を起こして村を断裂させようとする人もいますが、我々は断裂を起こさないように努力しています。」
 
 一方、C村長は、村落の中の、とりわけ仏教徒の間に残る猜疑心を軽減する方法があると信じている。ただし,そのためにはお互いが心を開かねばならないし、「時間をかけてお互い学びあわねばならない」と考えている。
「過去の事件は忌まわしいものですから、どうすれば共に暮らし続けることができるのか新たに学んでいかなければなりません。例えば、今は(仏教徒とイスラム教徒が)同じ仕事に携わるなどのことが行われていますが、こうしたことから始めていけるでしょう。一緒に田んぼを耕したり暮らしていくなどです。しかし偏見を取り除かねばなりません。プロムプラシット寺院の件についてもわだかまりが100パーセントなくなることはありません。こうした残虐な事件についてわだかまりをなくすのは非常に困難です。」

 プラシット寺院のM住職は、村落内の仏教徒とイスラム教徒の関係は断絶にまでは至っていなと考えている。たとえ今では怒りの感情はいくらか収まってきたとは言え、問題はいまだに「深刻な段階」出ると見ている。以前のように戻るためにはお互いの信用を築いていかねばならないが、現段階ではこれらの2つのグループの信頼感はいまだにとても少ないと見ている。
 「分裂はしていませんが、ただ深刻な状態にあるだけです。お互い怨恨から殺しあうようなことはありませんし、(仏教徒とイスラム教徒は)同じ学校で勉強しています。彼らはだれがやったのかわかっています。それは彼らの話です。しかし申し上げたように、イスラム教徒たちがそのグループから出てこない限り信頼はどんどん薄れていくでしょう。私の方から何をするでもありません。何かやりたければやればいい。他人に害を及ぼす連中はそれが彼らの任務なのです。ただ、我々がそれでもって恨みや怨恨を抱いたりしても我々の気は晴れません。」
 M住職は、今このような状況になっているのは、この地域の(治安問題の)解決が不十分であるからだと考えている。
 「(暴力事件を引き起こす)組織はもう長いことこの地域で活動していますし、それはまたどれだけ問題解決が話にならないかを物語っています。(軍隊や警察をいくら展開しても)何も守ることができません。暴力事件は予防せねばならぬもので、発生してからどうこうしてもまた発生します。(もろもろの政策の)効果を聞かれれば、惨めな失敗なのです。我々はこの地域で暮らしています。政府が我々の安全を守ることができるとは信じていません。意気消沈させようとしてこういう話をしているのではありませんよ。この問題の解決が簡単だとは思わないでほしいのです。何か政府が行ってそれで解決というものではないのです。私は、国の力は不十分だと思います。」
 
 最もはっきりした指標となるのは、プロムプラシット寺院の周辺に住む仏教徒の感情である。多くの人が、自分達はいまだ、たとえ(イスラム教徒の住民と)話すことさえする用意がないと語る。 
 「会話することもありませんし、彼ら(イスラム教徒)のほうでも話に来ることはありません。これが兄弟同士だったら、兄弟の縁を切ってしまったも同然です。当時、国家融和融合委員会がやってきました。彼らは沢山の(アラブ人のような)ガウンをまとったイスラム教徒を数多く伴ってきました。バスに乗ってきたのです。彼らは融和融合のために来たのですが、私はそんなことはできません。村人だってそうです。今また融和させようとしてもそれはできません。」
 「わざわざ仲良くしようと来てくれなくて構いません。私もそのつもりはありませんから。我々の寺は我々の寺です。政府が援助してくれて、買うのが必要なものを援助してくれればいいのです。ともに暮らすなどはできません。とてもそんな気にはなれないのです。」 
 「彼らはあんな酷いことをしたのですよ。一緒に暮らすにしても何を信じればいいんです。政府が彼らをどうにかしなければなりません。」