タイ深南部紛争における内/外ダイナミックスとその和平へのインプリケーション

松野明久(大阪大学大学院教授)

 タイ深南部マレー系住民の民族運動の内部には、ダイナミックスを生んでいる対立軸が少なくとも3つあると思われる。それらは「旧世代」対「新世代」、「民族主義」対「イスラミズム」、そして領域の「内」対「外」である。対立軸といっても2つ目の軸を除いては本質的に対立する2項ではない。

 これらの対立軸のうち領域の内/外について現状を整理し、和平へのインプリケーションを考えてみようというのが本稿の趣旨である。民族運動の担い手がその領域の内(inside)と外(outside)に分かれて存在し、それらの間に協調・競争といった関係が発生するという現象はめずらしいものではない。当然ながら、運動が効果を上げるためには協調へ向かうことが望ましく、そのためには内と外が適切に役割を分担し、その関係を共同で管理するメカニズムをつくりあげなければならない。また、両者の協調関係は和平の達成にとってもプラスに作用すると考えられており、したがって、国際社会が和平促進のために内と外の連絡をファシリテートすることも紛争解決に向けた活動のメニューに含まれたりする。

運動主体の内/外

 現在タイ政府が和平対話の相手としているのは外にいる人びとである。彼らはマレーシアなどに居住し、事実上の亡命状態にある。2013年以来、政府と運動組織との対話は、一時中断はあったものの今日まで続いており、2015年3月以降は6組織がマラ・パタニ(MARA Patani)というゆるやかな統一組織に大同団結して対話を行ってきた。しかし、タイ政府はマラ・パタニがどこまで住民を代表しているか計りかねている。というか、あまり代表しているとは思っていないようだ。マラ・パタニの和平対話チームと何度も会ってはいるが、マラ・パタニという名称を認めてもいない。

 外にいる人びとの一般的特徴として、民族主義的傾向が強いという点があげられる。それは言い方をかえればイスラム主義にもとづかないことを意味しており、逆にイスラム主義の立場からすれば「世俗的」といいたいものであろう。こうした民族主義的・世俗的立場は、タイ深南部の運動が、第二次大戦後、アジア・アフリカを席巻した民族主義(しばしば世俗的で社会主義的なスローガンを標榜していた)のうねりの中で展開したことを思えばしごく当然のことである。

 インドネシアとの関わりを示すエピソードがある。マレーシアで出版されたパタニの民族運動を描いたある本によれば、マラ・パタニの中の最大勢力、BRN(Barisan Revolusi Nasional民族革命戦線)の闘士たちは、インドネシア国軍陸軍参謀長を務めた故ナスチオン将軍が著した『ゲリラの要諦』(原題はPokok-Pokok Gerilja、1953年出版、英訳本はFundamentals of Guerrilla Warfare)を読んでいたという[1]。民族主義派が主流をしめた対オランダ独立闘争の経験を元に書かれたこの指南書はインドネシアの外でも広く読まれた本で、基本的主張はゲリラ戦とは人民の総力戦だというところにあるが、ゲリラというのは、自らにおいては規律と秩序を保ちつつ、敵に対しては混乱させ苛立たせることが肝要だと述べている。

 しかし、かつての民族解放闘争の作戦の中に一般の市民を巻き込むような爆弾闘争はなかった。今日のBRNの手法は爆弾、教師・役人の殺害、タイ治安当局の(ムスリムの)協力者の殺害、病院占拠など、市民を犠牲とすることをいとわない傾向がみられる。例えば、病院占拠(2016年3月)はそれ自身が目的ではなく近隣の警察署を攻撃する拠点として利用したということだが、国際人道法に違反するとして国連人権事務所(在バンコク)、マラ・パタニ、現地及び国際NGOがこれを非難した。また、昨年9月6日にナラティワート県のタクバイの学校前でおきた爆弾事件では4才の少女と彼女を幼稚園に送りに来ていた父親(いずれもムスリム)が爆発に巻き込まれて死亡した。

ムマン村村長襲撃事件の映像

2017年2月10日に起きたパッタニー県ヤリン郡ピヤームマン村村長襲撃事件。
         (ヤリン郡警察署が公開した防犯カメラの映像から)

 こうした過激な傾向の背景に、BRN内部におけるサラフィストの影響力増大があると論じる向きもある[2]。それによれば、調整BRN(BRN-Koordinasi)という内部グループとその中の若い世代が作った警備小隊(RKK: Runda Kumpulan Kecil)という実行グループ、さらにはパタニ・イスラム・ムジャヒディン運動(GMIP: Gerakan Mujahidin Islamiya Patani)がそうした方向をリードしているとされる。これらのグループはポンドック(pondok)と呼ばれるイスラムの伝統的寄宿学校のネットワークを基盤として、90年代以降アフガニスタンの反ソ闘争からの帰還組が築きあげてきたとみられている(Zachary Abusa 2006)。

 インドネシアやマレーシアでは、アフガニスタン反ソ闘争の帰還組、俗に言うアフガン・ムジャヒディンたちが1990年代にポンドック(インドネシアではプサントレンと呼ばれる)を基盤に過激思想のネットワークをつくり、ジュマア・イスラミヤとして2002年のバリ島でのナイトクラブ爆破事件(死者200名以上)以降、各地で大規模な爆破事件を起こした。彼らがもっていたサラフィスト的傾向というのは、非ムスリム及び非イスラム的な要素に対する冷酷と言えるまでの態度を意味していた。それは宗教的信仰を純化させたものというより、闘争を暴力的に展開するための思想だったといえるだろう。

 しかし、タイ深南部ではポンドックを、マレー文化を保持する文化遺産とみる人も少なくなく、当然のことだが、すべてのポンドックが過激派ネットワークにつながっているわけではない。そんな状況下で、タイ当局がポンドック・ジハード(Jihad Witaya School)をそうしたネットワークの要にあるとみなして2005年に閉鎖し、あげくの果ては資金洗浄に関わったとして裁判所に訴え、2015年には裁判所が学校用地の接収を認めたということは逆効果となった可能性がある。このポンドックの創設者は1979年に殺害されており、後を継いだ娘婿、ドラ・ウェーマノ(Dollah Waemano)は2005年の閉鎖前にタイから逃亡している。2005年には彼の息子リドワン・ウェーマノ(Ridwan Waemano)が殺害されている。ポンドック・ジハードはむしろタイ政府による弾圧や裁判の不当性を訴えるため裁判所の決定を受け入れた。そして2016年、新しい敷地購入の資金集めを行うと、驚いたことに390万バーツ(約11万ドル)も集めることに成功した[3]。ポンドック・ジハードは今やタイ政府によるマレー文化の弾圧と住民による抵抗の象徴となってしまったのである。

閉鎖後廃墟となっているポンドック・ジハード(2016年9月浅見靖仁撮影)

 本来、マレー世界のポンドックはイスラム過激思想の温床などではなかった。インドネシアでは近代教育の導入とともにプサントレンの近代化も進み、今では有名な進学校になっているプサントレンもある。適切な教育政策の下では伝統的イスラム寄宿学校にもそうしたポテンシャルは存在する。ポンドックを最初から敵視するような政策は見直さなければならないだろう。

和平へのインプリケーション

 マラ・パタニに参加している6つの組織の中の最強硬派であるBRNが和平対話の現在の枠組に強い不信感を抱いているという状況では、実質的な対話は進まない。紛争解決においてはもっとも過激な相手を交渉に含ませるのがひとつの原則となっており、その必要性は北アイルランド紛争の解決プロセスで証明された。タイ政府の「犯罪者とは交渉できない」といった主張は、かつての英サッチャー政権時代のIRAに対する考え方を思い起こさせるが、それは和平を一歩も進めることはなかったのである。

 一方、BRNとしては政治部門(ないしは外交部門)を海外にもつことが選択肢として考えられるだろう。そうした民族解放闘争は少なくない。パレスチナ(PLO)は典型的な例だろうし、東ティモールのフレテリン(東ティモール民族解放戦線)もそうだった。西サハラのポリサリオ戦線は今もって海外に拠点をもっている。自治を求めるにせよ自決権を求めるにせよ、今の時代、国際的認知なくして実現させるのはむずかしい。そのためにはどうしても外交が必要となる。さらに、BRNが交渉力を得るためにはそれがタイ南部マレー系住民の総意を代弁しているという何らかの政治的な行動が必要となる。力の誇示だけでは交渉力を得ることにはならないだろう。

 いずれにしても鍵を握るのはタイ政府である。タイ政府にとって交渉が意味をもつためには、相手が実際に力をもつ交渉相手である必要があり、外の人々とだけ対話をするというのであれば、外と内のコミュニケーションがちゃんととれていることが望ましいはずだ。そのためには外と内の連絡をファシリテートすることも仲介者にしてもらっていいだろう。かつて、東ティモールについては東ティモール内部の人びと(インドネシア政府が選んだ人びとでインドネシア派だったり隠れ独立派だったりさまざまな人が選ばれた)と外部の人びと(全員独立派の活動家)合計約30人が数日ウィーン郊外の城に閉じこもって水入らずで話をするという場を、1995年と1996年、国連事務総長が設けたことがあった。いわゆる「全東ティモール人包括対話(All Inclusive Intra-East Timorese Dialogue)」である。日本政府はその二回目と三回目の対話に資金を提供している。紛争当事者のインドネシアが参加していないため、和平プロセスとして成果を上げたとは言えないが、この会議によって東ティモール人内部にあった長年の確執や分裂に自ら向き合う機会が与えられたと言えるのではないだろうか[4]。タイについても同様な信頼醸成のための仲介努力があっていいと思う。

(2017年2月)

[1] Herry Nurdi, Perjuangan Muslim Patani: Sejarah panjang penindasan dan cita-cita perdamaian di Patani Darussalam, Kuala Lumpur: Alam Raya Enterprise Sdn Bhd, 2010, p. 165-166.(書名訳、パタニ・ムスリムの闘い:パタニ・ダルサラームにおける長い抑圧の歴史と平和の理想)

[2] Zachary Abuza. Nov. 1, 2006. Islamist Insugency in Thailand, Hudson Institute. (https://hudson.org/research/9873-the-islamist-insurgency-in-thailand)

[3] International Crisis Group. Southern Thailand’s Peace Dialogue: No Traction, Crisis Group Asia Briefing No. 148, 21 September 2016, pp. 9-10.

[4] 松野明久『東ティモール独立史』早稲田大学出版部、2002年、189-192頁。