民族の「年代記」と「聖域」、そして「未来」:タイ深南部を訪ねて考えたこと

星野俊也(大阪大学大学院教授)

 歴史とは、「現在と過去との間の尽きることのない対話(an unending dialogue between the present and the past)」と論じたのは英国の歴史学者E.H.カーである。この立場は、歴史を客観的な実証のプロセスから解放し、主観性を免れえない過去の人々の記憶や記録と、たとえ歴史学者であったとしてもやはり特定の主観性を免れえない現在の我々とが対話をし、その相互関係のなかから深い洞察や理解を得ようとするものである。カーは、また、過去との対話においては、自らの主観の相対化と相手の眼を通して歴史を見る想像力が大切だと説く。こうしたアプローチは、もっぱら強者の一方的な筋書きで描かれがちな歴史観の裏側にまで踏み込む必要を私たちに気づかせ、あるいは、歴史の波間で消し去られかねない声なき声にまで私たちが耳を傾けることに道を拓くのではないだろうか。ここから、時空を超えた間主観性(inter-subjectivity)に基づく歴史理解が可能となる。

 他方、歴史がその当事者にとって主観的なものであればあるほど、それは人々、あるいは民族の間に語り継がれ、書き残された物語―いわば「年代記(chronicle)」―としてとらえることが相応しいように思う。逆にいえば、民族とは、多くの場合、こうした年代記を共有する人々の共同体と重なることが多いだろう。したがって、ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体(imagined community)」と呼ぶ存在も、「年代記を共有する人々の共同体」を含むこととなる。そこでは、その民族が主人公である。そして、英雄がいて、敵対者がいる。神格化された絶対的な存在の導きや聡明な人智による栄華もあれば、自然の摂理や神ならぬ人の過ちによる苦難と試練も語られる。そこから伝説は生まれ、レガシーが引き継がれる。年代記の教訓は規範を構成することもあるだろう。それは、人々の思考を豊かにし、アイデンティティの形成に資する一方、人々を束縛することにもなる。私たちは、相手が、そして自分たちもまた、それぞれにきわめて主観的な年代記のなかで暮していることを認識する必要がある。

 ある民族の年代記が時間軸のなかでの人々の記憶や記録のまとまりであるならば、そうした物語の舞台の空間的な拠点は民族にとっての「聖域(sanctuary)」となる。それは物理的な境域(territory)として画定されたものもあるが、より精神的な心のふるさと(homeland)として思い描かれるものもあり、その両者は必ずしも重ならない。好むと好まざるとにかかわらず、自らの法的・政治的な境界(boundary)がもっぱら外部の主体との過去の事件や駆け引きや相互認証の結果であるのに対し、心理的・精神的なそれは得てして一方的、主観的である。物理的な領域の支配は時代によって変転する。力の強い勢力は実効支配や影響力の範囲を広げていくかもしれない。他方、力の劣る勢力は、たとえ物理的には外部の勢力の支配を受けたとしても、自らの心理的・精神的な聖域を守るため、結界(barrier)を張り、極力外部からの干渉をブロックすべく動くに違いない。人は誰も聖域を持つ。なぜなら、そこが自分の心の拠り所であり、自分らしさを素直に出せる場所だからである。民族や宗教、言語などを異にするアイデンティティ・グループにとってもそれぞれの聖域がある。そして、紛争は、各グループが自らの聖域を狭く定義をし、一方が他者の、あるいは複数のグループの間で、相互の聖域を侵害・否定・奪取しようとするなかでエスカレートする。

 2016年9月、私たちは「アジア平和構築イニシアティブ」事業の現地調査のためにタイ王国の南部、特にマレーシアとの国境に近い「深南部」と呼ばれる地域を訪ねた。タイ中央政府の行政区分ではパッターニー(Pattani)県、ヤラー県、ナラーティワート県、及びソンクラー県の4つにまたがるこの地域の住民の大半はマレー系でマレー語方言を話すイスラーム教徒である。上座部仏教が主流のタイ王国にとっては異色のこの地域の景色や人々の暮らしはむしろマレーシアそのものと言っていい。

 実際、この地には14世紀から19世紀にかけて、国境となる川を挟んだマレーシアのクランタン州などにもまたがった「パタニ王国(Kingdom of Patani or Sultanate of Patani)」があった。マレー半島東海岸に位置するパタニの港は、大航海時代の南シナ海交易の拠点となり、16世紀から17世紀に王国は絶頂期を迎える。立て続けに4代女王が統治した時代である。

 マレー系王朝のなかでも最も古いと考えられているパタニ王国の側から見れば、タイのスコータイ、アユタヤー、トンブリーという歴代の王朝から現在のチャクリー王朝まで、幾度となく北からの征服を受け、分割統治を強いられ、さらに20世紀に入ると英国の植民地支配を受けた南のマレーシア(英領マラヤ)とタイ王国との間の条約で引かれた国境線によって自らの王国の領土と人民は分断されたことになる。これは、「パタニ・マレー」としての年代記に自らの聖域をめぐる栄枯盛衰の物語として刻まれているはずである。

 タイ政府は国内に「紛争」があることを認めない。ましてや深南部の分離・独立要求など真っ向から否定するに違いない。しかし、深南部のイスラームの人々の心のなかにパタニ王国はいまも存在している。

 政府のタイ同化政策(ジャウィ語、マレー系民族衣装、マレー系・アラブ系氏名の禁止など)は、パタニ・アイデンティティの危機に直面した人々の反発やパタニ王国の復興やタイ王国からの分離・独立を求める反政府武装組織を誘発し、政府の治安部隊との衝突や爆弾テロ事件などによって今日も現地の不安定な情勢が続く。とりわけ1947年のハジ・スロン事件(パタニのカリスマ的ウラマーのハジ・スロンの逮捕をきっかけとする一連の事件)や2004年のクルセ・モスク事件(パッターニー県にある歴史的なモスクに立てこもったイスラーム教徒の反政府グループに対して政府治安当局が集中攻撃をかけて全員死なせた事件)とタクバイ事件(ナラーティワート県のタクバイ郡警察署前での抗議デモで身柄拘束された住民がトラック移送中に窒息死した事件)など象徴的な事件は、その真相はいずれも明らかではないところも多いが、政府と反政府武装勢力との対立の構図に拍車をかけることになった。(詳しくは、堀場明子「タイ深南部紛争の概要と背景」を参照。)

 私たちが深南部を訪ねたのは「イード・アル=アドハー(犠牲祭)」の日、すなわち、イスラーム教のラマダーン後のイード(祝祭)の一つで、イスラーム暦第12月(ズール・ヒッジャ)のメッカ巡礼の最終日の10日にあたっていた。人々は正装してモスクに集い、また、豊かな者は家畜を生贄として供出し、祈りとともに屠られたヤギやヒツジなどの肉を貧しい人々に配る日となっている。

 そんなこともあり、その日、パッターニー県にありタイ南部で最も美しいといわれるパッタニー・セントラル・モスクや同県最古で、悲惨な事件の現場ともなったクルセ・モスクには若者を中心に、男女が一番の正装に身を包んで集まっていた。色とりどりのマレー系の民族衣装で着飾り、スマホでスナップや自撮りをし、談笑するたくさんの若者たちは、“よそ者”に違いない私たちと親しく接してくれた。「マレー・パタニ」の人々の世界に招き入れられ、あたかも聖域の一部を垣間見る思いだった。

 笑いと祈りと語らいで豊かなマレー系イスラーム教徒たちの日常と祝祭が織り交ざる時間が過ぎていく一方、タイの政府や国民の間で共有されている年代記のなかの深南部は、統合と反逆といった別のストーリーラインで伝えられていても不思議ではない。事実、タイ王国にとってそこは、いまや分離の危機を抱える聖域と映るのかもしれない。タイ王国の一部であることは、国王や王室をたたえる肖像や旗は当然のごとく至る所に配置されていることでも一目瞭然である。タイ式の公立学校も存在感を示している。多くはないが仏教寺院も点在する。だが、中央の実行統治を最も強く印象づけるのは、非常事態宣言に基づいて主な幹線道路にいくつも設置された検問所やロードブロックだろう。

 深南部の和平は何としても進めていかなければならない。治安の確保のために実力の行使は必要である。しかし、法執行のためであろうと、政府の過度の強硬策はかえって人々の不信と抵抗と反発とを強めるだけだろう。反政府勢力による闘争も、過激な無差別テロは何の問題の解決にもならない。混乱に乗じた麻薬取引や人身売買など違法なビジネスが現状打開を遅らせている。

 では、暴力を抑制し、少しでも対話を促進するためにはどうしたらよいのだろうか。鍵の一つは、対立する双方のもつ「年代記」と「聖域」へ理解を深め、まさに対話を通じて、その重なり合いや違いを見出しながらも、未来に向かい、新たに共通の年代記と聖域を形作っていく相互の努力に求められる。

 時代の大きな流れのなかで近代国家が形成され、また、民族や宗教、言語などに基づいてアイデンティティ・グループが生まれ、それぞれの歴史観やふるさと意識が醸成されていく。そこで語られる歴史観は、上述のように、客観的で証明可能な事実が含まれていたとしても、多くはより主観的な国家や民族の「年代記」と理解すべきものに由来する。また、どこを自分たちの故郷とするのかも、法的・政治的な現実もあるが、より心理的・精神的なイメージとしての固有の領域や空間が主張されることも多い。そのなかでも特に譲れない領域が人々にとってのコアの「聖域」となる。どちらも独りよがりで、互いが容易に受け入れられるものではないが、それらは安易に干渉や否定をすべきものではない。大切なことは、相手がなぜそのような年代記や聖域を持つにいたったのか、そのこだわりは何なのかを謙虚に学ぶことではないだろうか。その学びのなかで、負の交流の激しさに目を瞑ることはできなくなるかもしれない。他方で、意外な正の交流の豊かさを発見することもある。

 タイ深南部に関しては、いまに生きる「パタニ・マレー」の習俗と近現代におけるタイ王国の統治とのせめぎあいの側面ばかりが強調されがちだが、それだけがすべてではない。現地の数多くの人々にとっては、タイかムスリムかを問わず、深南部の平和と発展は共通の利益である。そして大切なのはよりよい明日を築いていくための「機会」が広がることである。

 未来のタイ深南部が現在の対立の構図の延長線上になければならない理由はない。双方にとっての共通の課題を共同で対処する新たな年代記や、両者がともに暮らせるもう一つの聖域づくりに向けて、どんな機会を広げることができるのか。そして、私たちが「アジア平和構築イニシアティブ」事業を通じていかに和平をファシリテートしていくことができるのか。今回の訪問は、タイ深南部についてより深く考える有益な機会となった。

(2017年2月)