反政府武装勢力の協力者なのか政府の人間なのか マクター・シーカチと「容疑者」になること

 この記事は、タイ深南部の紛争地域で、タイ政府側からも、武装勢力側からも、村人からも容疑者として扱われ、苦しい立場に追いやられた一人の若者の経験を、現地若手ジャーナリストが取材したものである。
 

反政府武装勢力の協力者なのか政府の人間なのか
マクター・シーカチと「容疑者」になること

 

執筆者: ガームポン

 
 
 一人の若者が反政府武装勢力の協力者として治安事件の容疑者となったことは、彼の生活を一変させるものであった。隣人たちでさえ彼に近寄りたがらず、かえって、彼らに余計な猜疑心が持たれないように、マレーシアに逃げてくれと頼まれた。治安維持担当官と協力して帰郷プロジェクトに参加すると、彼は自分が何度も、誰からも容疑者として扱われることを知るのであった。これがマクター・シーカチの身に起きた出来事である。
 
 
 ナラティワート県シーサーコーン郡サーコー町に位置するビーロ村は、タイ南部国境三県の中でも有数の山岳地帯である、ナラティワートの幾つかの郡にまたがるモテー山脈の山の1つの麓にある平地に位置する。このモテー村とそれを取り囲む村々は、地元の人間が「サーコー田園平地」と呼ぶ大きな平地をなしており、長い歴史を持つ。この近辺の住民はマレーシアの西海岸地帯と文化的・商業的な繋がりがあり、また過去にはサイブリー川沿いの水運経路に位置していた。この村は親族社会になっており、村民はすべて3つの家系から成り立っている。その3つの家系とは、ディーマディー家、トナーカーヨー家、そしてシカチ家である。ビロ村はこの一帯で一番人口が多い村であり、マクター・シカーチの出身地である。
 マクターの父はこの村の出身であり、母は同じナラティワート県スンガイ・コーロク郡ムーノ村の出身である。マクターは高等教育を終えた後、バンコクのラムカムヘン大学に進学し政治学を専攻した。大学在学中は、南部国境県出身者の学生団体であるPNYSに所属し、南部国境三県出身のマレー系の学生と多くの活動を行った。マクターはコーランの読誦に優れていたので、この学生団体の行事の多くは、彼のコーランの読誦で始められた。彼はそれにより友人や先輩後輩から敬われていた。
 彼は、自分の故郷を発展させる夢を抱きながら2005年に大学を卒業した。政治学を勉強した以上は、次官か政治家にでもならないと物になったとは言えないと考えていた。彼の初めの職業は、ナラティワート県ナラティワート市内にあるイスラムブーラパー学校における英語の教師であった。その後彼は自分の出身の村に移ったがそこでも仕事は英語教師であった。それと同時に、マクターは村の若者の農業グループを立ち上げ、自分の果樹園の敷地に若者が来たら、座って話ができるように小屋を建てたが、それがグループの事務所であった。マクターによると、その時期にはグループの若者が大勢モスクに礼拝に行っていた。このような活動を彼の村で行った者はこれまでいなかった。
2007年6月12日に、小学校の図書室が昼休み時間に襲撃され、生徒の目の前で女性教師2人が銃で撃たれ死亡するという事件が起きた。この事件は南部国境三県で働く教師たちに大きな衝撃を与えた。ナラティワート県内の小学校およそ100校は、治安維持部隊がこれまで以上に教師の安全確保の手段を講じるまで、無期限に閉校することを決定した。
 治安担当官たちはビーロ村に注目し、マクターの立ち上げた青年グループが今回の事件の実行犯ではないかと疑いの目を向けた。その後警察により、アーリーペンと、ナスリーという2人の若者が警察に逮捕された。警察が逮捕に至る証拠として用いたのは、山の麓の田んぼ沿いに建てられた小屋から発見された薬莢とジャウィー文字で書かれたマレー語の本である。その後警察は証言に基づき、さらに多くの地元住民を逮捕した。マクターはそのうちの1人であり、彼が逮捕された要因はナスリーによる証言である。ナスリー自身は、2005年に銃撃されて死亡したナラティワート県スンガイ・パディ郡の地方政治家の息子である。ナスリーはシーサーコーン郡のダーホン村の出身であり、定期的にダーホン村とビーロ村を行き来していた。逮捕された日に、彼は警察の留置所の壁に、彼の父親は銃撃され、彼は子供として復讐の役割を果たした、という旨を書いた紙を張り付けた。また、彼は警察に拷問されなかったことに感謝もしている。一方マクターにとってナスリーは、ナラティワート県のイスラムブーラパー時代の生徒であった。
 マクターによると、その日彼は田んぼ沿いにある小屋にいたのだが、多数の車から降りてきた、目出し帽をかぶった何十人もの男たちに取り囲まれた。取り押さえられる際に、彼は銃の後尾で腹部と顔を殴られた。その出来事を目撃していた住民によると、彼は顔面血まみれで連れ去られたそうである。マクター自身は警察署に連行されたのであった。容疑者の拘束という事柄は一般の人にとって理解しやすい事柄ではない。彼らは皆、戒厳令並びに非常事態宣言(正式名称、緊急時の行政に関する非常事態宣言・仏歴2548年)という特別法がこの地域で施行されているのは知っているのだが、実際の公務執行において、誰がどちらの法律を用いていることについてはよく分かっていない。例えば、戒厳令においては軍隊の公務執行に対して便宜を図っている。従って軍隊はいかなる令状もなく、強制捜査を行ったり、容疑者の身柄を拘束することができる権力を付与されている。一方緊警察は非常事態宣言とその他の刑法などの法律に基づいて公務を行わなければならない。そこで、実際に起きている段階としては初めに軍隊が戒厳令で付与された権力に基づき容疑者の身柄を拘束し、口頭で尋問を行うのである。尋問の中で重要性がある者については、容疑者の身柄と尋問調書を警察に引き渡す。よって、治安事件における捜査で身柄を拘束された人間の多くはまず軍隊に拘束されてから、戒厳令で定められた拘束期間である7日を過ぎた場合、今度は非常事態宣言に基づき警察に身柄を拘束される。その場合、非常事態宣言状という、裁判所により発行される令状が必要になる。こうした複雑な状況のために、多くの人の理解が混乱してしまっている。例えば地元住民は、もし治安担当官が行き過ぎた権力の行使をしても訴えることができないと思っている。
 マクターは、警察によると2007年7月5日に至るまで26の治安事件に関わっており、その取り調べのためにシーサーコーン警察署で一晩拘留された。その後彼の身柄はナラティワート県ナラティワート市内にある軍隊のチュラーポーン基地に移され、そこで2晩に亘り尋問を受けた。夜8時過ぎに2人の取調官により、12時過ぎるまで取り調べられたのである。その模様をマクターは詳しく語ってくれた。
 取調担当官からの最初の質問は、「お前は反政府武装組織の頭だろう」という事であった。続いて、「どこで組織に加入するための宣誓をしたのだ」と聞いてきた。マクターは取調官に対し、「更生のために宣誓する必要があるのですか」と聞き返した。すると取調官は、ナラティワート県チョアイローン郡にあるサンパンウィッタヤー学校の教師であった反政府武装組織BRNの指導者の1人と言われていたマセーにより作られた独立のための)7段階の図を見せた。この図を見てマクターは、パタニ解放運動の闘争を説明する書類であるというと、取調官は、ここまでよく分かっているということはパタニ解放運動の構成員に違いないといった。マクターはラムカムヘン大学で政治学を専攻していたので、こういう事柄は教室の中で扱われていたと説明した。彼は取調官に、チャワリット元首相による、The Last War という本を読んだことがあるかと尋ねた。
 彼は長時間に亘って取り調べを受けた。その後、取調官が、「もしかしたら間違えて捕まえたんじゃないか」と愚痴るのを耳にした。その兵士は「警察は誰であろうと捕まえたやつを送ってよこすだけだ」とこぼした。その後彼はパッタニー県内のインカユッタボーリハーン陸軍基地、または所在地の地名からボートーン基地と呼ばれる場所に移され、そこでは7日間に亘って午後7時から夜中の12時まで取り調べを受けた。
 マクターを拘束した警察部隊の司令官はシーサーコーン郡警察署犯罪対策課の警部補であるチャクラリット警察大佐であり、地元住民からチュンペーとあだ名されていた。彼は爆破事件に巻き込まれて死亡した。このチュンペーという名前は、7チャンネルの刑事ドラマの主役で、地元の住民を虐げ悪事を働くマフィアに立ち向かう警察官の名前が、プーク・チュンペーであることに由来する。チャクラリット大佐は警察学校の出身ではない。しかし、チューリンという若い女性の小学校教師が、ナラティワート県ランゲ郡クチンルーパ村で殺害された事件が起きた後、チョンブリー県のシーラーチャー郡副郡長であった彼は、所属変更の願い出を出し内務省から南部国境三県の警察として赴任してきた。彼の望みは、チューリン教諭を殺害した犯人をすべて捕まえることであった。彼はまた、数多くの治安維持事件の容疑者を逮捕し、また地元のマフィアを脅しながら臨んでいった。時には、治安事件の容疑者を捕まえた後、車に乗せて市中を見せしめに回ることもあった。このような、彼による行き過ぎた権力の行使のうわさは数多くある。チャクラリット警察大佐は同じような「理想」を持って南部国境県で働く警察官たちの例となる者であっただろう。しかし彼の職務を執行する方法はまた別の話である。
 マクターはインカユッタボーリハーン基地で7日間拘束された後、非常事態宣言状に関する最終的な手続きを行うためにナラティワート県ナラティワート市内のコークキアン警察署に身柄を移送された。彼はその警察署で3晩過ごすことになる。そこで調査担当官は、非常事態宣言状を取り消し、身柄の拘束を終えるために、何の罪状を書いたらいいのかとマクターに尋ねた。マクターは分からないと答えた。マクターによると、反政府武装組織の協力者と見なされた容疑者に対して出された非常事態宣言状については、たとえ担当官による取り調べが終了しても、警察の担当官が令状取り消しのための手続きを取らないために、その人物の名前は政府の側の令状発行対象者の名簿の中に残ったままであることがある。彼の理解が正しいのか否かはともかく、彼もまた多くの地元住民のように、様々な手続きを経た後でも、担当官が彼らの名前を名簿から削除しない限りは、非常事態宣言に基づく逮捕状が発行された者として、名簿の中にずっと名前が残っていると考えている。19日間に亘る拘束の後、最終的に担当官は、彼の罪状を無許可の武器所持として記録した。
 マクターは自身が着用している眼鏡を指しながら、これを着用せねばならなくなったのは、身柄を拘束された日に銃の後尾で頭部を殴られて以来、左目の視界がぼやけてきたからであると説明した。しかし彼の体に起こったことの他にも、まだ目に見えない被害があるのである。
 マクターによると、身柄を拘束されて釈放されてからというもの彼の生活は一変してしまったという。親戚付き合いはほとんどなくなってしまった。また、集落の人が集まる場所であるコーヒーショップでは、彼が反政府武装組織の協力者であるというささやき声が聞こえるようになった。バイクに乗っている時に知り合いが道を歩いているのを見かけると、後部座席に乗っかるように誘うのだが、みんな怖がって以前のように彼の誘いを受けないのであった。また、彼がコーヒーショップに入ると、それまでいた人間が1人また1人と席を立って店を後にしてしまうのだった。彼は母親と妻に対する同情を禁じえなかった。母親は犯罪者の親のように言われ、妻は犯罪者の妻として扱われる。マクター自身は治安事件において何か罪を犯したわけでもなく家に戻ってきたが、地元住民はまた違ったとらえ方をするのであった。地元警察のベテラン警官によると、マクターは地元で起きた26回もの治安事件の被告であり、警察はそうした情報に基づき彼を拘束したのであるという。彼は、確たる証拠がない限り警察が手を下すことはないという。
地元住民の1人は、マクターが「ジュウェー」(パタニマレー語で闘士を意味する単語)つまり反政府武装組織の戦闘員であるという。「私自身もジュウェーです」と彼は真剣な顔で語る。「でも私と彼は違います」と彼は首を振った。「私は心の中ではジュウェーですが、仏教徒を殺したり、何の罪もない人を殺めたり、首を切ったり、そういう行為には全く賛成できません。私は彼の親戚です。彼は反政府武装組織における指導者なんです」。
家に戻ってから、マクターは、彼の叔父でもある郡長から、どこかほかのところに引っ越してほしいと懇願された。郡長によると、また何かよからぬ事件が彼の身の上に降りかかるかもしれないからという事であった。マクターは、これといったはっきりとした目的もないまま、マレーシアに移る決心をした。
マクターがマレーシアにいる間、地元の治安維持担当官はしばしば彼の家にやってきた。マクター自身はマレーシアで彼と同じく自分の家に入れなくなり、マレーシアに逃げてこなければいけなくなった多くの同郷の者(南部国境三県出身のマレー系イスラム教徒)と出会った。彼らはマレーシアでは違法滞在者であり、生活は不安定であった。彼らの多くがマレーシアに逃げてきたのは、タイの政府による法律の用い方が信用できないからであった。マクターによると、その時彼は何かしようと考えていたわけではなく、6か月ぐらいで帰るつもりであった。マレーシアは彼の祖国ではなく、彼の故郷はタイにあるのだから。
マレーシアで6か月を過ごした後、マクターはナラティワート市内にある妻の実家に戻った。そこで彼はラムカムヘン大学時代にPNYS学生グループで活動を共にした友人や先輩たちと出会った。PNYSはタイ南部国境のパッタニー、ヤラー、ナラティワート、サトゥーン、ソンクラー県出身のイスラム教徒の学生団体である。その時、マクターの先輩であり、PNYSの代表でもあったイスカンダールは、ヒラールアマル財団の代表として、Civil Volunteer Network for Peace in ThailandまたはCTSと呼ばれるプロジェクトを行っていた。マクターはこのプロジェクトの研究者として参加するよう誘いを受けた。このプロジェクトは、南部国境三県で3,000人の会員を集めることを目標としていた。
 
 

タイ南部では、ゴム作りで生計を立てる住民が多くいる(堀場明子撮影)。

 
 
プラチャータム党
2011年PNWSのOBの1人であるムクターは政界に身を投じ、プラチャータム党という政党を設立した。ムクターはかつてタイ中央イスラム委員会の元秘書官であったピチェートと組んで平和党という政党を設立したことがあった。マクターはこのプラチャータム党から政治の分野で働く誘いを受けたのである。この小さな政党は、マレー人のための政党として、南部国境三県に住むマレー人の代表となるための政党となることを目的としていた。それ以前は、マレー系イスラム教徒の政治家は大政党に所属していたが、政策を提案する段階になると、所属政党の賛同を得ねばならず、それが障壁となっていたので、彼らは自分たちの政党を立ち上げねばいけないという結論に至ったのであった。
プラチャータム党はマレー文化を用いた広報活動を行った。例えばナシッドと呼ばれるイスラム教の教えを歌詞にした歌をマレー語とタイ語で作ったり、ポスターの中にクリス(マレー系の象徴的な意味を持つ短刀)を用いたりするのである。また、党からのメッセージとしては制度の不公正や不公平さを訴えた。この政党はコーヒーショップで話題には上ったが、誰もプラチャータム党が選挙になれば、選挙区で大物政治家に立ち向かえるとは思っていなかった。プラチャータム党は下院選挙の際に、マクターをナラティワート県第二区から擁立した。党の設立大会と擁立候補者の発表はシーサーコーン郡のサーコー小学校で行われた。この小学校はかつて2人の女性教師が銃撃され死亡した事件が発生した場所であり、マクターはこの事件の容疑者であったために衆目を集めることになった。警察も人を送ってこの行事を監視していた。マクターによると、彼はこの大会の舞台上から、自分が戻ってきてこの場にいることや、今日彼は住民の声を届ける代表として立候補したのだから、会いたければ何時でも来てくれて構わないという旨を警察に伝えてほしいと訴えた。その後まもなく警察官たちは車で大会会場を立ち去った。
マクターは昼夜を問わず選挙運動に精を出し、町から山麓の離村までくまなく回ったが、最終的には大規模政党の候補者に敗れた。彼の獲得票数は、120,000人の有権者がいるうちわずか3,000票にとどまった。
2011年には、マクターとイスカンダールは当時第4軍管区司令官であったウドムチャイ中将と協力して、反政府武装勢力に協力した廉などでマレーシアに逃走した者が帰国できるように身柄を照会する事業を行った。これは現在第4軍管区が行っている帰郷プロジェクトのひな型となるものである。しかしマクターによると、その当時彼は周りからいったい何者なのかと疑いの目を向けられていた。帰郷プロジェクトが始められた日には何者かが、マクターとイスカンダール、ウドムチャイの3人が札束の詰まった袋の中に入っている絵をマクターの元に送りつけてきた。
2012年マクターはナラティワート県シーサーコーン郡から、県会議員に選出された。県会議員を3期に亘って務めあげてきたベテランの現職を破っての勝利であった。地位が変わるにつれて、彼は周りの人間の自分に対する見方も変わっていくのを感じた。村落の住民はこぞって自分がマクターの親戚であると言い始めた。しかし同時に、彼が選挙で勝利を収めたのは裏で軍隊から支持を受けているからだという声も聞こえた。
帰郷プロジェクトは第4軍管区によって今日まで続けられている。しかしマクターはウドムチャイ中将が定年退職してからはこのプロジェクトから身を引いた。プロジェクトの原型を立ち上げたマクターは県会議員になった時、この現在のプロジェクトは空疎なものであり、「犯罪者呼び戻しプロジェクト」だと揶揄されていることに言及した。仏教徒の住民の一部は、この政策は罪を犯した反政府武装組織の協力者を利するだけであると考え、またある者は軍隊が予算を獲得するためのプロジェクトであると思っている。この帰郷プロジェクトに参加した住民は改心した印として帽子をかぶせられるのであった。
マクターはすでに県会議員の任期を終えた。彼は地元住民が自分のことを他の県会議員とは異なる存在として覚えていてほしいと望んでいる。マクターは現在、自身が選出された選挙区に住んではいないが、政治に関わる仕事を続けていきたいと望んでいる。彼はBRNからも軍隊からもよく思われていない自分自身のことを「二方面にまたがる謀反人」と呼ぶ。治安担当官は未だに彼のことを反政府武装組織の現地における作戦をつかさどる者であるという疑念を捨ててはいないのだが、今度は彼が帰郷プロジェクトに参加するともう一方の側(反政府武装組織)は彼のことを政府の協力者と見なすのだった。