バングラデシュ、チッタゴン丘陵の最近の政治動向

下澤嶽(静岡文化芸術大学教授・ジュマネット代表)

1.はじめに

 チッタゴン丘陵は、バングラデシュ南東部に位置するなだらかな丘陵地帯である。古くから、モンゴロイド系の民族がここで焼畑農業を営み暮らしてきた。現在11の民族、約60万人がここで暮らしている。宗教は仏教徒が一番多いが、ヒンドゥ教徒、キリスト教徒もいる。

バングラデシュの主流派であるベンガル人の抑圧的な政治態度が次第に強まり、1970年代後半から武装化したジュマ戦闘グループと紛争状態に入った。彼らは自らを「ジュマ(焼畑をする人)」と呼び、治安部隊や軍に対して抵抗を続けた。ベンガル人と軍人による虐殺事件[1]が多発し、7万人近いジュマ難民をインド側に出す惨事になったが、1997年12月にゲリラ戦を展開したPCJSS(Parbattya Chattagram Jana Sambati Samiti, チッタゴン丘陵人民連帯協会)とバングラデシュ政府との間に和平協定が締結され、紛争は一応終了した。

世界中がこの和平協定によって多くが解決していくと期待したが、実際にはチッタゴン丘陵には多くの課題が今も残っている。

 

2.和平協定の内容と構造、その弱点

 和平協定締結以前は、戦闘能力と暴力が政治交渉の中心にあった。1997年に和平協定が結ばれてからは、政治交渉の関心は和平協定の実施に移っていった。

 和平協定は4章72項から構成されている。以下がその主な内容である。

  • PCJSS関係者の大赦と生活再建
  • ジュマ難民・国内避難民への土地の返還と生活再建
  • 永住者[2]のみによって公選され、土地、警察、教育、保険などの広い権限をもった県協議会と地域評議会および新しいチッタゴン丘陵問題担当省による特別な統治制度
  • 国境警備隊(BGB)の駐屯地と6つの陸軍基地を除くすべての軍の仮設駐屯地(500か所以上)の引き上げ
  • 土地委員会と呼ばれる特別法廷によるジュマ習慣法・慣行に沿った全ての土地紛争の解決

 これらの実施状況については後ほど触れたい。

 この和平協定は、難民や国内避難民への再定住、軍と治安部隊の撤退、ジュマ住民への自治権限の委譲など、多くの希望的内容を含むものであった。しかしその一方で、実施スケジュールが明記されず、実施を監視する第三者機関が設けられていない。また、憲法改正を伴わなかったので、法改正や司法により反故にされるリスクもある。何よりも最大の懸案は、ベンガル人入植者のチッタゴン丘陵からの撤退が一切明記されていないことが、その後大きな課題を生み出すことになった。

 

3.和平協定の実施状況

 大きな項目にそって、和平協定の実施状況を見ていきたい。これはあくまでもジュマの立場から見た実施状況であり、バングラデシュ政府の認識とは多少異なる。

 

PCJSS関係者の大赦と生活再建

 武器を引き渡したPCJSS党員1,947人が通常の生活に戻り、一人5万タカの見舞金を受け取っている。起訴されていた党員839名中720名の起訴が取り下げられた。また、675名が警察官として雇用された。

 

②ジュマ難民・国内避難民への土地の返還と生活再建

 インド・トリプラ州にいた64,609名の帰還ジュマ難民(12,222世帯)が1998年2月末までに帰国し、大半は支援物資を受け取った。しかし、9,780世帯は土地を取り戻すことができなかった。政府はベンガル人入植者38,156世帯も国内避難民であると主張し、PCJSSリーダーがそれに猛反発したため、タスクフォースは膠着状態となり、ジュマ国内避難民への支援も土地の返還も始まっていない。

 

③永住者のみによって公選され、土地、警察、教育、保健などの広い権限をもった県協議会と地域評議会および新しいチッタゴン丘陵問題担当省による特別な統治制度

 和平協定では、1989年にすでに設立された3つの県評議会の権限を強化し、その上位にCHT全体の一般行政、治安維持、開発を監督し調整する地域評議会を設けること、そしてジュマを大臣とするCHT問題担当省を新設し、独自の「地域自治」を確立することが謳われた。県評議会も地域評議会も、委員の3分の2が先住民族、3分の1が非先住民族によって構成され、県評議会は公選で、地域評議会は県評議会委員の中から互選で選ぶことになっている。ジュマ民族および「CHTにおいて合法に土地を所有し、かつ定まった住所に居住する非部族民の永住者」だけが選挙で投票する権利を有すると定められている。

 県評議会は、これまでの初等教育、保健、農業など21分野に加えて、新たに土地、地元警察、観光、焼畑など11分野の管轄権を県行政から移管されることになっている。県評議会の管轄が及ぶ地域で土地を譲渡する際は、事前に県評議会の許可を得なければならず、政府による土地収用でも県評議会と協議して同意を得ることが義務付けされている。開発事業は全て県評議会を通して実施され、開発税、固定資産税、商業税、漁業税など12種類の税金を徴収し使用できるとしている。

 地域評議会は、CHT全域の一般行政、治安維持、開発を監督・調整し、市議会および郡・ユニオン[3]の各評議会、NGO活動と災害管理・救援事業、CHT開発局の監督と調整も行うことになっている。

 しかし、有権者リストにベンガル人を入れようとするバングラデシュ政府とPCJSSの間で対立が続き、結果的に一度も県評議会選挙は実施されていない。そのため、県評議会や地域評議会のメンバーは、政府が指名した「代行」が実際の職務にあたっている状態が続いている。また、1988年にはCHT問題担当省が設立されているが、地域評議会との意思疎通はうまくいっていない。

 

④国境警備隊(BGB)の駐屯地と6つの陸軍基地を除くすべての仮設駐屯地(500か所以上)の引き上げ

 和平協定では、国境警備隊(BGB)の駐屯地および6つの陸軍基地(各県庁所在地とアリコドム、ルマ、ディギナラ)を除き、陸軍及び民兵組織の全ての仮設駐屯地を、時限を決めて段階的に常設の基地に引き上げ、空いた土地を元の所有者か県評議会に譲渡することが謳われている。

 政府は、500以上の駐屯地の内、2006年までに172個所を引き上げたとしているが、正式に政府がPCJSSに知らせたのは31か所に過ぎず、空いた土地の処分も定かでない。また、政府は2009年8月にカプタイ旅団と35カ所の駐屯地を撤退させたとしているが、その一覧は公表されていない。一方、軍による土地収用が特にバンドルバン県で何か所も強引に進められているという報告が多数ある。

 また、内戦時代にジアウル・ラーマン軍事政権が極秘の政令によって、軍に民政への干渉と対反乱活動の特別な権限を付与し、チッタゴン丘陵に戒厳令を発令して行った「ダバノル(山火事)作戦」は、2001年に「ウットロン(高揚)作戦」に改称されただけで継続しており、現在も軍は、治安、道路整備、林産物の取引、NGO活動、慣習法など民政に深く介入し続けている。

 

⑤土地委員会と呼ばれる特別法廷によるジュマ習慣法・慣行に沿った全ての土地紛争の解決

 和平協定では、退官判事を委員長とし、当該の民族首長と県評議会議長、地域評議会議長かその代理、チッタゴン管区弁務官か副弁務官を委員とする「土地委員会」がCHTの「既存の法規、慣習、慣行」に基づき、CHT全域の土地紛争を最終的に裁定することが定められている。

 CHT土地(紛争裁定)委員会法は、和平協定から見ると多くの矛盾点を含んだ内容のままで2001年に可決された。例えば、和平協定ではチッタゴン丘陵の全ての土地紛争が対象となるはずだったが、対象範囲は「帰還ジュマ難民の土地が(政府によって)不法に割り当てられた場合」に狭められた。また、和平協定では5人の委員による多数決が定められたが、法律では「委員の意見が分かれた時は委員長の判断を最終判断」とするなど、その運用をめぐって多くの問題を残している。

 土地委員会は、この20年間に委員長が毎回任命されるだけで、具体的な活動をほとんど行わなかった。

 

 以上、項目ごとに実施状況を概観したが、PCJSSとバングラデシュ政府の間では、和平協定の実施の認識をめぐっても大きな温度差が出ている。PCJSSが2015年に発行した「和平協定実施報告書」(A Brief Report on Implementation of the CHT Accord)によると、政府は72項目中48の項目を実施し、15項目は部分的に実施、残りの9項目は実施のための準備中としているが、PCJSSによると25項目は実施されたが、13項目が部分的に実施され、34項目はまだ完全に実施されていないと主張しており、その認識は大きく異なっている。

 

4.ジュマ社会の分裂

 和平協定の締結後は、その内容やリーダーシップをめぐって、ジュマ・リーダーの間の分裂と抗争が進み、政治的交渉能力がさらに低下している。

 まず、和平協定の内容に満足できず、完全自治を求める先住民族リーダーが1998年にUPDF (人民民主統一戦線United People’s Democratic Front)を結成し、先住民族の活動は二つに分断される形になった。この二つのグループの間で、殺人、誘拐が頻繁に発生した。

 また、PCJSS内のリーダーシップの変化を望む勢力が、党から除名される事件が2010年に発生し、除名されたメンバーらがPCJSS・M・Nラルマ派として新たな政治活動を始めている。2007年から2013年の間でこれらの関係者の間の殺人が69名、殺人未遂が44名、誘拐が170件[4]といった大きな被害が出ており、和平協定後のジュマの人々の活動に大きな影を落としている。チッタゴン丘陵内だけでなく、国際社会においても3つの派閥間の争いから生まれる疑心暗鬼により、運動が分裂しやすく、大きな課題となっている。

 2015年11月に3つのグループの間で停戦協定が結ばれてから、これらの被害は減ってきているものの、対立関係は依然として続いている。

 

5.ベンガル人入植者による襲撃事件

 政府がベンガル人入植者に土地を与えるという触れ込みで、移住してきた入植者たちは、入植と同時に紛争状態に入り、生活そのものが危険な状態に陥った。そのため政府は彼らを集団キャンプに移住させ、軍がそれを警護し、食料配給を行うといった対応策を続けている。

 和平協定後は、自らの土地を求めてキャンプの周辺でジュマの人々の土地を収奪する試みが頻繁に発生するようになっている。こうした行為に対して、自分たちの土地を自衛しようとするジュマの人々とベンガル人の間に小規模な傷害事件が発生すると、大挙してベンガル人入植者がジュマの村を襲撃し、家々に火をつけ、ジュマ住民に暴力をふるう他、時としてレイプや死傷者が発生するケースも出ている。和平協定後の大きな襲撃事件だけでも、9~10件、小さい襲撃事件だとほぼ無数に発生している。

 大きな襲撃事件は、土地の係争トラブルに乗じて、軍関係者がベンガル人入植者によるジュマの人々に対する襲撃を煽り、直接暴力行為にはかかわらないものの、襲撃行為を見守る形で行われることが多い。チッタゴン丘陵は、和平協定が締結されて20年以上たった現在でも、こうした衝突事件、襲撃事件が発生する危険性をはらんでいる。

 

6軍による人権侵害

 チッタゴン丘陵では、超法規的な権限をもった軍による人権侵害が多発している。

 一貫して人権活動家や政治活動家に対する拷問や不当逮捕の件数が多く、政治的な活動の自由や思想・信条の自由が保障されていないことが伺える。2009年にアワミ連盟が政権の座についても、不当逮捕や拷問の数は減っておらず、根本的な構造の解決に至っていないことが明らかである。2004年~2013年にかけて、死亡事件16件、負傷事件32件、レイプまたは未遂事件が23件、略奪が36件、逮捕559件、拷問413件、殴打158件と多数の人権侵害が発生しているという報告もある[5]

 

7.まとめ

 和平協定後のチッタゴン丘陵は、国際機関やNGOによる開発事業が活発に行なわれ、外国人やジャーナリストも出入りできるようになり、一見平和な社会に移行したかのように見える。しかし、ジュマの人々はベンガル人入植者と軍の残留という不利な政治下に置かれ、和平協定をめぐるジュマ社会の分裂で、その交渉能力は低下し続けている。和平協定締結後20年余りの月日が経っているにもかかわらず、和平協定の実施は量的にもスピード的にも平和な環境を生み出すには充分ではない。

 

[1] 大きい虐殺事件だけでも13件近くになる。

[2] 合法的にチッタゴン丘陵に土地を所有し、生活する者を言う。

[3] バングラデシュの行政区分は上位レベルから、管区(ディビジョン)、県(ディストリクト)、郡(ウポジラ)、ユニオンとなっている。

[4] ジュマ・ネット 2015 『チッタゴン丘陵白書 バングラデシュ・チッタゴン丘陵地帯の先住民族 紛争・人権・内紛・土地問題 2007~2013』p.65

[5] ジュマ・ネット 2015 『チッタゴン丘陵白書 バングラデシュ・チッタゴン丘陵地帯の先住民族 紛争・人権・内紛・ 土地問題 2007~2013』p.28