バルヤーン・ウェーマノーとポンドック・ジハードからの教訓

 タイ深南部では、タイ政府側の治安部隊と、タイ政府からの分離独立を求めているマレー系武装勢力との対立が2004年以降深刻化している。最大の武装勢力は、BRN(Barisan Revolusi National:民族革命戦線)であると言われているが、BRNの組織の実態とメンバーのリクルート方法にはわかっていないことが多い。タイ深南部は歴史的に東南アジアにおけるイスラム教育の拠点として知られ、現在でもイスラム寄宿学校(ポンドック)が多く存在するが、タイ政府はこのポンドックこそが武装勢力の思想教育と人員養成の場となっているとして、様々な圧力を加えてきた。
 この記事は、現地の若手ジャーナリストが、BRNと関係が深いとされ、軍により学校の土地と校舎が接収されたことで地元住民から大きな反発を招いた「ポンドック・ジハード」と呼ばれるイスラム寄宿学校をめぐる事件を調査し、まとめたものである。

             バルヤーン・ウェーマノーとポンドック・ジハードからの教訓

                                           執筆者: ザハリ

 我々の前に無表情に座っている浅黒い肌の青年は、たとえおぞましい経験を語る際でも興奮した様子を見せなかった。そういう点ではバルヤーン・ウェーマノーも、そうした経験が心に刻み込まれている他の南部国境3県の他の多くの人間と変わりはなかった。しかし彼が他の人間と異なるのは、彼が歩んできて今なお続いている表舞台での闘争の歴史であり、これはまた、自らの闘争を表沙汰にしない彼の父親の闘争とも異なるものである。

 バルヤーンはこれまで長きに亘って、ウェーマノー家に残された、ただ1人の成年男子であった。そのため彼は、家族の誰かがいなくなったり、また様々な訴訟が降りかかってきたりなど、大きな困難に直面した時にも家族の面倒を見なければならなかった。(ウェーマノーの)家族は、運営に携わっていたジハード・ポンドック学校の土地が没収されて以来、強制捜査、身柄拘束、取り調べから、様々な折衝に至るまで、(軍隊からの)圧迫を直接、また間接的に受けてきた。バルヤーンは家族の面倒を見ながら様々な判断を下さねばならなかった。したがって、ウェーマノー一家の動きを見張ることは、バルヤーン自身の動きを見張ることと同じであるといえるだろう。バルヤーンが歩んできた道は、この地域が抱えてきた問題の1つの物語なのである。
 
 バルヤーンは今年34歳になる。彼はパッタニー県ヤリン郡ターダーン村で生まれた。彼の受けた教育は、ターダーンの村にある小学校に始まり、(続いて)パナーレ郡ポーミン村の、イスラーム・ワッタナタム学校というポンドックで(中等)教育を受けた。その後、ヤラー県にあるタムウィッタヤームーラニティ学校で宗教高等教育を受けた後、(パッタニー県にある)ダルルマーリフ学校でイスラム学のディプロマをうけた。バルヤーンは、ドゥーンロ・ウェーマノーの次男であり、彼こそが、2017年3月に漏洩したタイ治安部隊の文書によると、政府の高官たちがBRNの中で指導的な役割を果たしていると見られている人物である。
 
 バルヤーンは小さなころから、軍隊の任務遂行を目にしてきた。「物心付いた時からです。7歳か8歳のころ、警察が強制捜査に来たのを覚えています。」家族が、(反政府武装)組織と関りがあると見られていることについては、バルヤーンによると、それがはっきりしたのは、(パタニ県ヤリン郡の、実家の近くにある)タロッカポー村で発生した爆破事件との関与を疑われ、2007年に身柄を2週間に亘って拘束された時である。取調官の1人が治安関連の書類を彼に見せた。
 「(そこでは)彼らが、父は(反政府武装)組織の重要人物であると信じていることがはっきり示されていました。そしてこの話は社会の中にも広がっていきました。私自身はこのことについてできることは何もなく、ただ父の話については口をつぐんできました。」
 
 バルヤーンにとっては父親の姿はおぼろげにしか覚えていない。彼の父親は治安部隊の追及を逃れるために家から姿を消した。彼は、なぜ父が逃げなければならないのかが疑問だった。しかしながら、その後家族とジハード・ポンドック学校に起こったことにより、少しずつその疑問はほどかれていった。

 ポンドック・ジハードは、1963年、ヘン先生と呼ばれていた、ブラヘン・チェアーセー氏によって設立され、(地元社会において)重要な役割を果たしてきた。(設立の趣旨は)当時の(大きな問題であった)教育の機会不足や、不道徳な行いが常態化していた社会問題を解決するためであった。学校の名前である「ジハード」が意味するのは、「自らを積極的に育て改める」ということである。11年後の1974年ヘン先生は銃撃されて命を落とした。その後学校周辺の、設立以来運営にも携わっていた地域住民たちは、ドゥーンロ・ウェーマノーがヘン先生の代行をすべきであると考えた。
 
 ヘン先生が亡くなってから一年後、ドゥーンロはヘン先生の娘であるヤワヒーと結婚し、(正式に)校長となった。それ以来、学校の制度も、伝統的なポンドック学校から、ジハード・ウィッタヤー学校へと名前を変えた。したがって、バルヤーン自身はこのポンドック・ジハードの設立の魂を彼の祖父であるヘン先生から代々受け継いでいることになる。 
 「父はこの学校で学び、ヘン先生の最初の代の生徒でした。ヘン先生が亡くなってから彼の娘婿になりした。また、父はターダーン村のイマームの息子でもありました。」バルヤーンは、父親には多くの友人がいたことを覚えている。「物心ついた時から、父はめったに家にいませんでした。父には多くの友人がいました。政府の者、政治家、そして住民たちなどです。」 

 2004年1月4日に(ナラティワート県にある軍事基地で)発生した銃強奪事件以来、ジハード・ウィッタヤー学校は常に治安維持部隊から目を付けられることになる。2005年、バルヤーンが20歳の時に、ポンドック・ジハードは、テロリズムへの関与を疑われた。他の事件で拘束されていた2人の容疑者が、ポンドック・ジハードの教師であった、ドゥーンロ・ウェーマノーとイスマエー・センの2人から、学校の用地内で武器の使用に関する訓練を受けていたと証言したのである。ドゥーンロと、バルヤーンの義理の兄であるイスマエーは、治安部隊が、多くの治安事件に関りがある人物として挙げていた36人の名簿の中に名前が入っていた。そのうち19人が逮捕され、数人は裁判で争うために自首した。残りの人間は逃走した。(逃走した人間の中には)ドゥーンロとイスマエーが含まれる。この訴訟は、被告19人すべてに対する訴えが棄却されることで終結した。しかしながら、ドゥーンロとイスマエーは逃走したことで、まだ逮捕状が出たままである。
 
 この他、彼ら二人はポンドック・ジハードの用地を武器使用訓練のために用いたという容疑もあった。この容疑のために、学校自体が少なくとも二度の強制捜査に入られることになる。1回目の2005年の捜査では大量の捜査員を動員し、5日間に亘って行われた。ポンドック・ジハード学校の14ライの敷地(1ライはおよそ1,600平方メートル、40メートル四方)のあらゆる部分が捜査された。捜査員たちは武器を発見したかったのである。(しかし)バルヤーン曰く、捜査員たちは何も見つけられず、記者会見の時には、元村長が所有していた銃を見せただけであった。(学校で)軍事訓練が行われ、敷地内に武器を所有していたという裁判は、マユリー・ナウェーとムシークリー・センという(前述の、他の事件で拘束されていた)2人の(容疑者の)証言以上の進展が得られなかった。
 
 いずれにせよ、捜査の後、政府はポンドック・ジハードを閉鎖する命令を出した。後ほど再開の許可を与えるということであった。その一方で、国家マネーロンダリング撲滅委員会は、ポンドック・ジハードがテロ行為の支援に用いられていたので、その用地を接収し、国庫に組み入れられるように訴訟を起こした。法廷における争いは10年に亘る期間を費やした。その訴訟がまだ行われていた2005年6月20日、バルヤーンの兄である、リドワーン・ウェーマノーが友人二人といたところを銃撃され死亡する事件が発生した。バルヤーンは、犯人がサイレント銃を用いたと信じている。この事件は解決に向けて今なお進展がなく、(国境南部三県で数多くある)発生後いまだに犯人が見つからない事件の1つである。

 2007年バルヤーンは2週間に亘って(軍隊に)身柄を拘束された。(取り調べ期間中に取調官から)頻繁に聞かれたのは、父親の経歴であったり、父親がポンドックの敷地内で武器使用訓練をしていたかどうかということであった。(取調官はまた)30ページに及ぶ自白調書を見せた。バルヤーンはその書類に目を通さなかったので、自分に対してどういう容疑がかかっているのかわからなかったし、いかなる書類にも(容疑を認める)署名をしなかった。「その時の強制的な雰囲気はよくわかりました。軍隊の基地に拘束された年にアンカナー・ニーラパイチット女史と知り合いました。その時私は22歳でした。私はいかなる書類にも署名しませんでしたし、取調官が望んでいるような自白もしませんでした。」

 ポンドックについては、政府が再開の許可をしたものの、ポンドックの側では人員欠如のために再開ができなかった。(とりわけ)教師たちは様々な面で被害を被っていた。数人は銃撃され死亡し、また多くの教師が逮捕された。そして重要なのは、一連の事件があってからというもの、この学校に教えに来るものがいなくなったということである。その時期からバルヤーンは彼と家族が直面せねばならない様々な試練を理解し始めた。「(家族の中で)私は残されたただ一人の男手になってしまいましたし、家族の他のものに比べて、人権問題に対する知識があったからです。」バルヤーンは人権について、アンカナー・ニーラパイチット女史の、平和のための人権活動グループから多くを学んだ。その知識が後に彼にとって役立つことになる。

 2015年8月民法裁判所は、ポンドック・ジハード・ウィッタヤー学校の用地接収に関する裁判の証人尋問を行った。ウェーマノー一家は数人の弁護士の支援を受けながら裁判所で争った。バルヤーンによると、「私は国の法の裁きの公正を信じていますし、国が国民を虐げるということはないと信じています。したがって、たとえ敗訴しても結果を受け入れますし、勝訴すればなおいいです。神に感謝あるのみです。」
 2015年12月15日、民法裁判所は、(ポンドック・ジハードの)14ライに及ぶ土地について、1999年制定の金銭浄化防止・撲滅法の第3条(8)における、民法訴訟と金銭浄化防止・撲滅委員会による違反する条項、すなわち財産をテロ行為に用いたとして、その土地の接収を命じる判決を下した。被告側は控訴をしなかったために、2016年2月、政府により学校の土地とその土地に建設された建造物が政府によって接収された(建造物の中には、学校の敷地内に立っていたウェーマノー一家が暮らしていた家も含まれる)。 
 
 「私は法廷の判決を尊重します」とバルヤーンは語った。一方、逮捕状が出ていて、用地接収の要因となった人々は、学校やその土地の所有者ではなかった。バルヤーンは法廷もそのことを理解していたと信じている。「家族でさえ、父が何をしたいたのか知りません。しかし、土地については、私も、(父のものではなく)他人の所有であると伝えました(登記上の所有者は、バルヤーンの母、つまりドゥーンロ・ウェーマノーの妻の他合計5人がそれぞれの土地を所有していて、それを共同の財産として学校が使用している形態であった)。しかし、裁判所の方も信用すべき証拠があると考えたに違いありません。裁判所の判決が出たら私は受け入れるだけです。初めから申し上げていたのは、裁判を争って、それが勝訴でも敗訴でも受け入れるということです。」またその一方で、控訴をしなかったことについては、彼1人の判断ではなく、ターダーン村の住民やポンドック・ジハードの卒業生による校友会と協議した結果の決断であるという。「多くの人が、なぜ私が(控訴して)最後まで案件を争わないのかと尋ねてきました。私だって精いっぱいやったのです。しかし(この案件がどうなっていくのかは)下級裁判所の判決を見ただけでもわかります。(しかし軍隊などの)役人が私のところに来て控訴するように言ってきました。家族にとってもこれは奇妙な事柄でした。彼ら自身が我々を訴追したくせに、なぜ今度は(判決が出ると)控訴するように勧めるのか。全く説明できません。役人たちはいったい我々をどうしたいのでしょうか。」

 (この事件を受け持った)ムスリム弁護士協会パタニ県事務所長のアブドゥルカハル・アウェープーテ弁護士によると、控訴するか否かについては、被告の判断に任せたという。弁護士の側は、住民たちに何が起こったのかを説明した。彼にとっては、判決が勝訴であろうが敗訴であろうが、法廷で争ったそのこと自体が「勝利」であったという。

 その時、バルヤーンと家族にとって一番重要なことは、生活を元に戻すことであった。家族の中には女性しかおらず、バルヤーンが彼らの世話を見なければいけないからであった。「私も疲れました。11年も過ぎれば十分です。私は女手だけで家族の面倒を見なければなりません。(2004年初頭からタイ国境南部3県の)治安が悪化してからというもの、家族にとって平穏な日々はありませんでした。何か(周辺で)事件が起きると、毎回家が強制捜査されますし、私がいないときには家には女性しか残されていないのです」そしてそうしたことから降りかかるストレスについては言うまでもないだろう。(自宅が建てられている学校の土地が強制的に接収された時に)バルヤーンの妻は双子を身ごもっていたが、流産してしまった。

 元の土地から出ていく決断をした時に、ターダーン村の住民や、ポンドック・ジハードの校友会は新しい場所を探す支援を申し出た。また、(家族やポンドックを支援するための)寄付を募る行事を行うことが決定された。その期間中は、ウェーマノー一家は(同じターダーン村の中にある)モスクに一時的に居住することになった。2016年2月16日、ウェーマノー一家は荷物をまとめ(長年慣れ親しんだ)ポンドック・ジハードの用地から立ち退いたのである。
 
 ポンドック・ジハードの土地が接収され、ウェーマノー一家が立ち退いたというニュースは瞬く間に広がり、(南部国境3県の)住民から大きな関心を集めた。それ以来、彼らはこの事件に対する地元社会の関心に対処せねばならなくなる。数多くの人がウェーマノー一家を訪ねてくるようになった。かつてはターダーン村は閑散とした集落であったが、(訪問者が数多く訪ねてきて)にぎわうようになった。そうしたことからバルヤーンは市民社会団体とのつながりができ、ウェーマノー一家も彼らだけで問題に対処することはなくなった。

 NGOはまた、ポンドック・ジハードの家族のための支援センターを(ウェーマノー一家が一時的に居住していた)ターダーン村のモスクの中に設立し、カオヤム(またはマレー語でナシ・クラブーと呼ばれる簡素なマレー料理)を振舞う募金イベントを行った。これは地元社会にとってはごく普通のことなのだが、普通のイベントと、ウェーマノー一家とポンドック・ジハードのそれが異なるのは、非常に参加者が多かったために象徴的な意味を持ったことである。ポンドック・ジハードのカオヤムというイベントは、本来は住処を失った家族を救済する住民同士の相互支援のためのものであるが、ある人々は(その参加者のあまりの多さゆえに)国家権力に立ち向かう示威行為であると見なし、また中には(このイベントは)国家のメンツをつぶすために行われたものだと解釈するような者までいた。

 いずれにせよ、多くの人がポンドック・ジハードの募金を募るイベントに参加した(5万人が参加したという)。参加者の中には家族を助けたいという気持ちから参加した者もあれば、中には周りが行くから自分も行くという者もあったし、ある者は物見から、またある者は(多くの人が参加しているイベントを利用したいという)政治的な意図から参加したのである。ポンドック・ジハードのカオヤムのイベントは、住処を失った者への支援という目的から、政治的な行事になっていった。市民社会団体、一般住民、宗教団体、政治家、公務員に至るまですべての人間がカオヤムを食べて、ポンドック・ジハードの家族を励ましたのである。また、募金額が目標に達したので、新たに(接収された土地から遠くない、同じ村内にある)土地を購入し、(家族のための)家と、(ウェーマノー一家とその支援者で運営される)コミュニティー学習センターの建物が建造されたのである。
 
 ポンドック・ジハードのための募金イベントの成功を通じて、バルヤーンは外部社会に向けてのコミュニケーションの重要性を悟った。この経験を通じて、彼はより舞台に立つことになり、それによりターダーンの村落が外部社会にこれまでなかったぐらいに知られるようになったのである。これにより状況は劇的に変化したといえる。今でも、何か事件が起きると、村人は拘束されたり尋問のため呼び出されたりするし、ウェーマノー一家に対する圧迫は続いている。ほぼ毎日軍人が彼らの元を訪れる。しかしながらバルヤーンは物事をいい方向で見ている。これでも、以前と比べればあきらかに状況は好転していると言える。なぜなら、それ以前は何年間も(軍人がただ訪れるだけでなく)強制捜査や事情聴取まで行われてきたからであり、また、(軍人の)訪問の仕方もそれ以前とは大いに異なってきた。

 個人的には、バルヤーンにとってここ数年に亘る経験は彼の内部に何かしらの変化を引き起こした。以前は軍人たちが彼の家に来ると大いに恐怖感を感じていた。「その時は、軍人たちが家に来ると、まるで怖くて魂が抜けたような感じになったものです。」しかし年月が経つにつれてそうした恐怖心も薄れていった。(バルヤーンとその家族は)これまで何度も(政府側からの)「提案」を拒否してきた。そうした提案を受け入れることは(政府からの)圧迫を弱めることを意味するのであるから、そのことを後悔していないかと質問すると、バルヤーンはそのことについては全く心配していないという。「私たちの判断が間違っていたとは思いません。何故なら正当な理由がないものを受け入れることは我々にとって良くないことだからです。もし我々が何ら法に違反しないことで争うのであれば、何を怖がることがあるでしょう。たとえ今日でなくても、いずれは我々に勝利が訪れます。」

 今日の状況や形を変えた圧迫はよりバルヤーンを考えさせるものであった。
 「我々の家族の状況は依然と同じでないかもしれません。より深刻な問題ととらえて注視している可能性もあります。我々は、外部の人から、国から虐げられた者として関心を集めていますから。国の方では彼らが信じている情報があるのでしょうが、それは我々に言いません。しかし、最近の訪問の仕方から考えると、彼らの(我々に対する)見方にも変化が起きたと思います。」
 
 周囲の関心がポンドック・ジハードの問題から、ウェーマノー一家に移っていくにつれ、バルヤーンはこれまで起きた様々な変化の要因が何なのか確信がなくなってきた。とりわけ、(パタニで起きている紛争の解決のための)和平プロセスが始まってから、政府が(反政府武装組織である)BRNの中で重要な役割を果たしていると考えられているドゥーンロ・ウェーマノーを和平対話の席につかせたいと思っているからである。 
 「政府の側としては、反政府側に対して、(指導者の)家族に対してこんなに良くしているんだということを演出したいのかもしれません。彼らの関心の中心は私の父ですから。」

追加資料
ドゥーンロ・ウェーマノーの経歴
‐パタニ県ヤリン郡に位置するジハード・ウィッタヤー学校、またはポンドックジハードの元校長
‐2004年、その年の1月に発生し413丁の銃が奪われた事件に関わったとして謀反、秘密組織結成の罪で告発される。
‐2005年12月15日民法裁判所は、金銭浄化防止撲滅法に基づき、ポンドック・ジハードがテロ行為の支援に用いられたとして、パタニ県ヤリン郡タロッカポー郡第4村落699に位置する、14ライあまりの土地、時価にして591,090バーツに相当する(ポンドック・ジハードの)財産を接収し国庫に組み入れる命令を出した。(訴訟は、ドゥーンロ・ウェーマノーの家族が控訴しない決断をしたため2016年12月で終了。
‐2016年、ドゥーンロ・ウェーマノーが(反政府武装組織BRNの最高指導機関であると言われている)サペーイン・バソー氏を主席とするDPPの書記長に任命されたという報道がされる。
‐2017年1月17日、サペーイン・バソー氏の死去受けて(BRNの最高意思決定機関とされる)シュラー会議が、(ドゥンロ・ウェーマノーを)最高指導者として任命した(という報道があった)。
‐2017年6月、テロリスト・分離主義容疑者6人の写真とともに、これらを殺害した者には懸賞金がかけられ、ドゥーンロ・ウェーマノーには100万バーツがかかっていたという情報がソーシャルメディアで出回ったが、(紛争地域の治安維持を担当する国家治安作戦命令第4方面部はそれを否定した。