アチェ和平合意とその後の展開

 「クライシス・マネジメント・イニシアティブ(CMI: Crisis Management Initiative)」の仲介によるインドネシア政府とアチェ独立運動(GAM)との和平交渉は計6回行われた。第1回は2005年1月27-29日、第2回は2月21-23日、第3回は4月12〜16日、第4回は4月26日〜5月31日、第5回は7月12-17日である。そして第6回目の2005年8月15日、遂にインドネシア政府とGAMの双方はフィンランドのヘルシンキで和平のための共同覚書(MoU)に調印した。1976年12月4日にGAMがインドネシアからの分離独立を宣言してから29年、インドネシアの独立60周年記念日を2日後に控えた、まさに歴史的な和解であった。

 インドネシア政府代表ハミッド・アワルディン(Hamid Awaludin)法務人権相とGAM代表マリク・マフムッド(Malik Mahmud)との間で交わされたMoUの主なポイントは次の通りである。

 ①行政

・外交、国防、国内治安、金融、税制、司法権そして信仰の自由を除くすべての行政権はアチェ政府が持つ。
・新たなアチェの名称やアチェの公職者の役職名は、アチェ議会が定める。
・アチェは旗、紋章、歌など地域の象徴を持つ権限を有する。
・これらアチェ行政に関する新法を遅くとも2006年3月31日までに制定する。

②政治参加

・政府はアチェにおける地方政党の結党を認め、そのための政党法の改正を遅くとも2007年2月15日までに行う。
・2006年4月にアチェの首長選挙を、2009年にアチェの議会選挙を行う。
・すべてのアチェ住民が選挙権を有する。
・アチェの選挙実施においては、外国からの監視団を招聘する。

③経済

・アチェは外国からの借入や、インドネシア中央銀行とは異なる金利を定める権限を持つ。
・アチェは地方税を定め、徴収する権限を持つ。
・アチェはインドネシア国内外からの投資や観光客を直接誘致する権限を持つ。
・アチェは、アチェ領域内の天然資源からの収益の70%の権限を持つ。
・アチェのすべての港湾と空港の開発および運営はアチェが行う。
・アチェは空路および海路を通じて、諸外国と自由に往来することができる。

④法規則

・アチェにおいて軍人が市民に対して行った犯罪は、アチェの文民裁判所で裁かれる。
・アチェに人権裁判所を設置する。
・アチェに真実和解委員会を設置する。

⑤恩赦と社会への再統合

・政府はMoUの調印から15日以内に、すべてのGAMのメンバーに恩赦を与える。
・紛争に関与したすべての政治犯にも同様に恩赦が与えられる。
・恩赦を与えられた者はインドネシア国民としての政治的、経済的あるいは社会的なすべての権利を回復する。
・紛争中にインドネシア国籍を放棄していた者は、国籍を回復する権利を持つ。
・インドネシア政府は、恩赦されたGAMのメンバー、政治犯および紛争で損害を被った市民が職を得られなかった場合は、農地および社会保障などの援助を行う。その資金運用はアチェ政府が行う。
・GAMのメンバーは差別されることなくアチェの警官あるいは軍人になる権利を持つ。

⑥治安規定

・GAMは総勢力3,000人の部隊の武装解除を行う。GAMが所有する840挺の兵器は、アチェ監視団(AMM)に引き渡される。
・GAMの武装解除は9月15日から4段階に分け、2005年12月31日に終了する。
・特別配備中のインドネシア国軍および警察の撤退も9月15日から4段階に分け、2005年12月31日に終了する。
・特別配備終了後もアチェに留まる政府の常駐軍は14,700人、警官は9,100人である。

⑦AMMの設置

・AMMはEUおよびASEAN諸国によって構成され、MoUの遂行を監視する。

GAMの武装解除と政府治安部隊の撤退

 和平合意から1か月後の2005年9月15日、オランダの外交官でEU特別代表のピーター・フェイス(Pieter Feith)を団長、タイのニパット・トンレック少将(Maj. Gen. Nipat Thonglek)を副団長とし、総勢202名からなるアチェ監視団(AMM)が正式に発足した。AMMはその後、EUから132名、ASEAN諸国から98名の計230名に増員された。AMMの任期は2006年12月15日までであった。

 しかしながらAMMが和平合意の実施状況を監視し、これを成功に導くためには、インドネシア政府側とGAM側の双方との十分なコミュニケーションと調整作業が不可欠であることはすぐに明らかとなった。

 そこで、和平合意の中にはなかったものの急遽設置されたのが、AMMとインドネシア政府とGAMの三者協議の場としての安全調停委員会(CoSA)である。2005年8月22日の第1回会合で、直面するあらゆる問題の話し合いの場として毎週木曜日と金曜日に開催することが決められた安全調停委員会は、2006年12月2日までに計44回の会合を持った。

 AMMにとって当面の最重要課題は、840挺の兵器を引き渡すことに合意したGAMを速やかに武装解除させることにあった。

 GAMの武装解除は4段階に分け、さらにアチェをいくつかの地区に分けて行われた。また、この4段階に合わせて、インドネシア国軍と警察も順次アチェから撤収していった。

 第1次武装解除は州都バンダ・アチェなどで9月15〜17日に行われた。GAM側は279挺の銃器を引き渡したが、銃器としての基準を満たしているとして回収されたのは226挺だった。回収されるべき銃器は兵器工場などで製造された使用可能な状態の銃器であるとの判断から、36挺は銃器とはいえないとAMMが受け取りを拒否した。残りの17挺は、AMMは銃器と認めたもののインドネシア政府側のAMM代表が銃器と認めることを拒否した。

 このGAMの第1次武装解除に平行してインドネシア政府は8月9日〜9月25日の間に国軍将兵7,418名、警官1,300名をアチェから撤収させた。

 第2次武装解除は北アチェや東アチェなどで10月15〜18日に行われた。GAM側は291挺の銃器を引き渡したが、回収されたのは198挺だけだった。残りの58挺は銃器としての基準を満たしていないと受け取りを拒否され、17挺は、AMMは銃器と認めたもののインドネシア政府側のAMM代表が銃器と認めることを拒否した。

 このGAMの第2次武装解除に平行してインドネシア政府は10月14日〜24日の間に国軍将兵6,117名、警官1,050名をアチェから撤収させた。

 第3次武装解除は大アチェ県などで11月14〜22日に行われた。GAM側は286挺の銃器を引き渡したものの、回収されたのは207挺だけであった。残りの64挺は銃器としての基準を満たしていないと受け取りを拒否され、15挺は、AMMは銃器と認めたもののインドネシア政府側のAMM代表が銃器と認めることを拒否した。

 このGAMの第3次武装解除に平行してインドネシア政府は11月19日―12月6日の間に国軍将兵5,596名、警官1,350名をアチェから撤収させた。

 第4次武装解除は東南アチェなどで12月14〜19日に行われた。GAM側は162挺の銃器を引き渡したものの、回収されたのは138挺であった。残りの20挺は銃器としての基準を満たしていないと受け取りを拒否され、4挺は、AMMは銃器と認めたもののインドネシア政府側のAMM代表が銃器と認めることを拒否した。

 このGAMの第4次武装解除に平行してインドネシア政府は12月20-31日の間に国軍将兵6,756名、警官2,150名をアチェから撤収させた。

 こうして和平合意に定められた2005年12月までにGAMの武装解除は完了した。ただ問題は、GAM側は総数1,018挺の銃器を引き渡したものの、銃器としての性能と基準を満たしていると認められAMMに回収されたのは769挺にすぎなかったということである。つまり、和平合意でGAM側が約束した840挺には達しなかった。

 この問題を解決するためGAMは12月20日、公式な声明書をAMMに手渡した。その内容とは、GAMが所持していた銃器や弾薬はすべて引き渡したこと、万が一、12月31日までにまだGAMが所持する銃器が残っているのがわかった場合は直ちにAMMに引き渡すこと、12月31日以降に銃器が発見された場合は不法所持とみなすことに合意すること、などである。

 これを受け2005年12月21日、AMMはGAMの武装解除終了を宣言したのだった。

 また、インドネシア政府の治安部隊も和平合意に基づき、アチェに常駐する国軍将兵14,700名、警官9,100名を残し、2005年12月末までに国軍将兵25,887名、警官5,850名のアチェからの撤収を終えた。

まずは、2004年に発生したインド洋大津波の被災者用仮設住宅(2008年撮影)。

まずは、2004年に発生したインド洋大津波の被災者用仮設住宅(2008年撮影)。

アチェ統治法の特徴

 和平合意のもう一つ重要なポイントは、アチェの統治行政に関する新法を遅くとも2006年3月31日までに制定することであった。それにあたり新法の基本原則として合意されたのは次の4点である。第1に、アチェは、憲法に則ったインドネシア共和国の権限である外交・国防・国内治安部門と金融・税務・司法権および信教の自由に関することを除き、市民行政や裁判の実施と共に、すべての公共部門における権限を行使する。第2に、インドネシア共和国が締結する各種の国際協定のうち、特にアチェの利害にかかわるものは、アチェの立法議会との協議と承認を経て有効とされる。第3に、アチェに関するインドネシア国会の諸決定は、アチェの立法議会との協議と承認を経て有効とされる。第4に、アチェに関してインドネシア政府がとる諸政策は、アチェの首長との協議と承認を経て執行される。

 こうした原則に基づき、アチェでは、アチェ州議会版、アチェ州政府版、国立シアー・クアラ大学版、国立イスラム大学版、アチェ市民社会専門家委員会版そしてGAM版など、いくつものアチェ統治法の草案が作られた。これらの草案はアチェ州議会でとりまとめられ、2005年11月29日に内務省に提出された。ただ、これがそのまま法案となったわけではない。インドネシア内務省が2006年1月に国会に提出したアチェ統治法案は、アチェ州議会がとりまとめた全206条の最終草案にさらに修正を加えたもので、条文の数も全273条へとふくれあがっていた。

 とはいえ、2001年に制定されたアチェ特別自治法がいわばトップダウン式に策定されたがゆえに十分にアチェ住民の理解と満足を得られなかったことを思えば、このアチェ統治法の策定プロセスは、ボトムアップ式に地元の意向を取り入れたものと評価してよいであろう。

 アチェ統治法の主な特徴は、次の通りである。

 まず、財政面においては、アチェは地方税などの自主財源に加え、中央との収益分配で、アチェ内の土地・建物税の90%、土地取得税・建築税の80%、所得税の20%、炭化水素や林業・漁業・地熱などの天然資源の収益の80%、石油収益の15%、天然ガス収益の30%が配分されるほか、さらに追加分配金として、石油分配金の55%と天然ガス分配金の40%を得ることとなった(第181条)。アチェの収入はそれだけではない。これに通常の中央政府から地方への一般交付金と特別交付金が加わり、さらにアチェには特別自治資金として15年間にわたり国の一般交付金総額の2%が、15年目から20年目までは1%が支給されることになった(第183条)。

 政治面では、政党の推薦を得ない無所属での首長選挙への立候補が認められ(第67条第1項)、アチェのみの地方政党の結党も認められた(第75条第1項)。また、アチェ州警察長官やアチェ州検察長官の任命にはアチェ州知事の判断が必要であることも明記された(第205条第1項、第209条第2項)。

 イスラム法に関しては、アチェではすべてのムスリムにイスラム法が適用されることのほか、たとえばアチェで犯罪をした非ムスリムにはインドネシアの刑法に従うかイスラム法に従うかの選択権が与えられること、刑法上の規定がないイスラム法上の犯罪に関しては非ムスリムといえどもイスラム法が適用されることなどが詳細に定められた(第126条、第129条)。

 また、教育面では、小中学校の完全無償化、さらに障がい者や社会的弱者への特別な教育機会の提供などが謳われた(第217条)。

 このようにアチェ統治法はアチェの特権と独自性を大幅に認めたものといえるが、当初、GAM側はいくつかの条文の問題点を指摘し、これに満足はしていなかった。しかしながら、そうした問題点は今後アチェの行政と議会を掌握すれば修正は可能になるとの判断から、この法律の下で粛々と選挙へ向けた準備を進めたのだった。 

2006年に行われたアチェ正副州知事選挙のポスター。

2006年に行われたアチェ正副州知事選挙のポスター。

アチェの首長選挙と議会選挙

 2006年12月11日にアチェでは、正副州知事と州内19の県および市の一斉首長選挙が実現した。和平合意で定めた06年4月の予定より大幅に遅れはしたものの、投開票で大きな混乱が起こることはなかった。

 インドネシア政府もこの選挙には公平な姿勢で臨んだ。このことは、JPPR(国民のための選挙教育ネットワーク)やKIPP(選挙監視独立委員会)といったインドネシア国内のNGOばかりでなく、アメリカ、EU、マレーシアそして日本からの選挙監視団を受け入れたことからも明らかであろう。

 日本政府は、この選挙のために約8万米ドルの草の根・人間の安全保障無償協力を実施した。これは、選挙に関するリーフレットの作成など有権者教育の費用としてアチェのKIP(独立選挙委員会)に対して行ったものである。また、投開票には、在インドネシア日本国大使館員、在メダン日本国領事館員および在インドネシアJICA事務所員の計6名が立ち会った。

 選挙の結果、GAMは、アチェ州知事のほか、州内6つの県・市の首長の座を手に入れた。正副州知事選挙でGAMの候補者が勝利したことは、大方の予想を覆す出来事であった。というのも、この選挙はGAMにとって分裂選挙であったからである。GAMの幹部・長老グループは、アチェで有力な既存のイスラム系政党PPP(開発統一党)と共闘して、国立シアー・クアラ大学教員のフマン・ハミッド(Human Hamid)を州知事候補、GAM幹部のハスビ・アブドゥラ(Hasbi Abdullah)を副知事候補とすることで、組織としては副知事ポストの確保を狙った。一方、こうしたGAM幹部・長老グループのいわば弱腰の姿勢に不満を抱いたGAMおよびそのシンパの青年層は、AMMでGAM側の上席代表を務めていたイルワンディ・ユスフ(Irwandi Yusuf)を州知事候補、SIRA常任幹部会議長で05年8月に和平合意に基づき恩赦となったムハマド・ナザル(Muhammad Nazar)を副知事候補に担いだ。開票の結果、イルワンディ・ユスフ=ムハマド・ナザル組が38.2%の得票率で当選した。フマン・ハミッド=ハスビ・アブドゥラ組は16.62%の得票率で次点であった。組織分裂したとはいえ、この2組のGAM系候補の得票率を合わせると54.82%であり、アチェの有権者の半数以上がGAM系の候補者を支持したことになる。

 2007年2月8日、2007-12年を任期とするアチェ正副州知事にイルワンディ・ユスフとムハマド・ナザルが正式に就任した。就任式を前にユドヨノ大統領と会談したイルワンディ・ユスフは、「アチェと中央との関係はすでにGAMと中央政府との間の和平合意で定められており、それにわれわれは従うことを保証する」と語り、彼の指導下でアチェが独立に向かうのではとの一部の憶測を強く否定した。

 2009年4月に行われたインドネシアの総選挙では、アチェの州・県・市議会議員選挙にアチェの6つの地方政党も参加した。この選挙で勝利を収めたのは、GAMの元軍事司令官ムザキル・マナフ(Muzakir Manaf)を党首に結党されたアチェ党(PA)であった。アチェ地方代表議会(州議会)議員選挙におけるアチェ党の得票率は48%で、全69議席中33議席を獲得した。アチェ州内の県・市議会議員選挙におけるアチェ党の得票率はそれよりさらに高く、全体で54%に上った。

 こうして和平合意後に行われた公正な選挙を経てアチェの行政と議会運営の主導権はGAM側が握ることとなった。

 GAMを前身とするアチェ党が選挙で勝利した翌年すなわち2010年6月3日、1976年以来GAMの最高指導者であり続けたハサン・ティロが故郷アチェの病院で85年の生涯を閉じた。30年以上にわたってスウェーデンを拠点にアチェ独立運動を指導してきたハサン・ティロは2009年10月に帰郷した後もスウェーデン国籍のままであったが、死の前日に見舞いに訪れたジョコ・スヤント政治法律治安調整相は彼の親族にハサン・ティロのインドネシア国籍証明書を手渡していた。アチェ独立運動の最高指導者ハサン・ティロが再びインドネシア国民に戻りその生涯を終えることをインドネシア政府も望んだのであった。

井上治 
15 January 2014

 About the author/著者について
拓殖大学政経学部教授。専門はインドネシア政治。主な著書に『インドネシア領パプアの苦闘〜分離独立運動の背景』(めこん、2013年)他。

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